Samurai Goal

釜本


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<張本勲>記録更新のカズについて「釜本さんやカズのプレーは長嶋さんとダブる」「食事をごちそうしたい」 

1: 2020/09/27(日) 18:24:40.15 _USER9
張本勲氏(80)が27日、TBS系テレビ「サンデーモーニング」にリモート出演。23日の川崎F戦でJ1最年長出場記録を更新した横浜FCのFWカズ(三浦知良、53)についてコメントした。


「ここまでやると思わなかったねえ。やっぱり、立派と言うしかないですね。相当な練習して他の選手に負けないよう頑張ってるんだけども、逆に言えば若手が伸びてない。それとねオーナー、経営者に感謝しなきゃ。70になっても契約してやると言ったらプレーできるんだから。もう少し頑張ってもらいたいな」。

張本氏は15年の放送で当時J2のカズがJリーグ最年長ゴール記録を更新したことについて「カズファンには悪いけど、もうお辞めなさい」と“引退勧告”をした。

さらに「野球で言えば(J2は)2軍だから、2軍で頑張ってもそんなに話題性もない」とし「若い選手に席を譲らないと。団体競技だから伸び盛りの若い選手が出られない。だから、もうお辞めなさい」とコメントし騒動になった過去があった。

その時はカズ本人が、張本氏からの「激励」とポジティブに受け取っていると大人の反応を見せていた。これに対し張本氏は「カズにあっぱれ! 辞めた方がいいと言われて、普通ならクレームをつける。それをさらりとかわして、先輩からの助言だと言ってくれる。こんなこと言う人いるの? 男らしいというか腹が据わっている」と絶賛。

「釜本さんやカズのプレーは長嶋さんとダブる。長嶋さんの晩年のプレーを見て『もういいでしょう』と思ったこともある。ただ(引退は)本人が決めること。本人がやると言うのならやればいい。ケガせず元気で頑張ってほしい」と話し、最後に「(カズと)会ったことはありませんが食事をごちそうしたい」としてこの話題を締めくくっていた。

9/27(日) 9:49 日刊スポーツ
https://news.yahoo.co.jp/articles/ef216a709465a0eb7a4de1e683b814173c35f10d

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「第2の釜本」はなぜ生まれないのか 日本サッカー史上ただひとりの“ワールドクラス” 

1: 2020/09/05(土) 14:20:53.33 _USER9
かつて、メキシコ・オリンピックで得点王になった釜本邦茂には、南米やヨーロッパの有名クラブから獲得のオファーが殺到した。ドイツの有名クラブでプレーする計画も実現間近となっていた。Jリーグが始まって27年が過ぎても、彼を超えるストライカーは現れない。あらためて考えたい。どうしたらこの国に、ワールドクラスの点取り屋が誕生するのか。



■バイエルン・ミュンヘンでプレーする計画も
 1944年4月15日に京都で生まれた釜本は、1960年代から1984年にかけて早稲田大学、ヤンマーディーゼル、そして日本代表で活躍した。ヤンマーの選手、後に監督兼選手として日本サッカーリーグ(JSL)で251試合に出場して202点(80.1%)を記録、プレーした17シーズンのうち7シーズンで得点王となっている。何より、JSL時代全27シーズンで釜本に次ぐ通算得点記録が85点であるということを知れば、彼がいかに隔絶したストライカーであったかがわかるだろう。通算シーズン数がJSLとほぼ同じで、年間の試合数がJSL時代の2倍以上にもなるJリーグ(J1)でさえ、現時点の最多通算得点は大久保嘉人の185点(17シーズン、448試合=41.3%)なのである。

 日本代表では、釜本の時代にはクラブチームとの対戦が多く、Aマッチは限られていた。近年は100試合を超す選手も少なくないが、釜本のAマッチ出場数は76試合。その試合数で75点を記録している。こちらも、釜本に次ぐのは三浦知良(カズ)の55得点(89試合)と、2位以下を大きく大きく引き離しているのだ。

 メキシコ・オリンピック(1968年)での得点王も特筆される。この大会で日本は3位決定戦まで6試合を戦って9ゴールを記録、そのうち7点が釜本(残りの2点はともに釜本のアシストにより渡辺正が記録)だった。日本は常時5人のDFを配して2人のMFとともに守備を固め、左ウイングの杉山隆一がロングパスを追ったり自らドリブルで進んでチャンスをつくり、そこからのボールを釜本が決めるという非常にシンプルなサッカーをした。釜本の決定力あっての銅メダルだった。

 当時24歳。釜本は自己のサッカーを完成させ、まさに世界的な選手になっていた。前年までは、大型選手にありがちな動きの緩慢さが目立っていた。すでに自分の型はもっていたが、ボールを止め、ターンして、打つという3プレーがひとつひとつ分かれていたのだ。しかしこの年の1月から3月にかけて単身で西ドイツに短期留学、ザールブリュッケンのスポーツシューレで州主任コーチのユップ・デアバル(後に西ドイツ代表監督)に鍛えられ、まったく別の選手になった。プレーが流れるように一連のものとなり、スピード感が格段に増したのだ。

 メキシコ・オリンピック後にはブラジル・サッカー協会創立50周年を祝う記念試合の世界選抜に推挙された。そしてオリンピックで釜本のプレーを目の当たりにしたメキシコはもちろん、欧州や南米のプロクラブから多数のオファーも受けた。彼の恩師であるデットマール・クラマーが計画したように、西ドイツのトップチーム、たとえばバイエルン・ミュンヘンでプレーしていたら、おそらく当時世界最高レベルにあったブンデスリーガのトップスターのひとりになっていただろう。間違いなく、釜本は「ワールドクラス」の選手だった。

 釜本の後、Jリーグ時代になって、世界のトップリーグで活躍したアタッカーは少なくない。中田英寿をパイオニアに、小野伸二、中村俊輔、香川真司、本田圭佑、大迫勇也、南野拓実……。しかし私にとって、「日本サッカー史上最高の選手」はいまも釜本なのだ。時代を超えてサッカー選手を比較するのはあまりフェアではないかもしれないが、中田以降を見ても、「ワールドクラス」と言えるまでの選手はいない。日本サッカー史上、「ワールドクラス」は釜本ただひとりなのである。



全文はソース元で
https://news.yahoo.co.jp/articles/adade89669ae3b282024aa575bd22ee1ff41fda1?page=1
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<カズ、中田は天才なのか?>天才の定義「やっぱり釜本さん、野球なら王さん、長嶋さんクラスでしたよ」 

1: 2020/06/29(月) 07:03:47.39
天才は異端であり天邪鬼だ
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天才を育むには、それを見極める眼と環境が要る。バルセロナはリオネル・メッシを、レッドスターはドラガン・ストイコビッチ(愛称はピクシー)を発掘すると、指導スタッフは周知徹底したそうである。

「あいつはいじるな」

 概して天才はバランスが悪い。他競技に目を向ければ、ひとりで計23個の金メダルを獲得したマイケル・フェルプス(水泳)や短距離と走り幅跳びを両立させたカール・ルイス(陸上)などの例があるが、サッカー界で攻守万能な天才は見かけない。

 かつてイビチャ・オシムは言った。

「ロナウジーニョも守備をさせてしまえば、ロナウジーニョではなくなる」

 メッシもロナウジーニョも批判の矛先は「あまり走らない」ことだった。また札幌を指揮するペトロヴィッチ監督も、ある試合後の会見で「小野伸二が全力疾走をするのを久しぶりに見た」とジョークに少し毒を塗した。だが裏返せば、彼らはこれほど運動量が求められる時代に、明らかな減点を相殺してもあり余る価値を創出してきた。そもそも斯界に、素走りが大好きな天才はいない。異次元の緩急で何度も相手を置き去りにしてきたヨハン・クライフも例外ではない。

「人が走るよりボールを走らせればいい」

 やはり球技の天才は、ボールを愛し、ボールに触れることで違いを生み出す。もちろんペレのように「ひとりスルー」でGKを欺くこともあるが、それもボールに触れれば無敵なキングの威圧感が大前提になる。

 さてこれだけ記しただけでも、いかに日本では天才が育ち難いかがわかる。天才は異端であり天邪鬼だ。敢えてコーチの指示とは別の選択をして、それ以上の解決策を見つけ出してしまう。ピクシーは、そこで度量の広い指導者に誉められ続けたから才能が開花した。だが残念ながら日本では、少年時代からチームの勝利が優先され、個々の探求心がへし折られて来た。幼少期からチームへの献身が過度に強調されれば、良い労働者は生まれてもプロで輝く武器は磨けない。

天才はイメージだけで進化した
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コーチの指示以上の解決策を見つけ出す。ストイコビッチの閃きは、Jリーグでは異質に映った。(C)Jリーグフォト

 若い世代には伝わり難いが、日本サッカー史上別格の天才は釜本邦茂である。野球一辺倒だった時代に、こんなスーパーアスリートがサッカーを選んだのは奇跡だった。今なら大谷翔平が迷い込んで来るような僥倖に近い。実際釜本は、引退後にセ・リーグで首位打者3度の江藤慎一の野球教室に参加し、現役高校生投手からホームランを叩き込み驚かせたという。江藤は感嘆した。

「やっぱり釜本さん、野球をやっていたら王さん、長嶋さんクラスでしたよ」

 当時180センチ超えは「クマ」に例えられるサイズなのに、柔軟な筋肉、俊敏性、爆発力のすべてを備えていた。元同僚DFの弁だ。

「普通の人は何千本、何万本と蹴って少しだけ上達するのに、釜本は10~15本で出来てしまう。早稲田大学時代は、1年生なのに走る時はいつもビリの方をトボトボ。それでもリーグ開幕戦から4ゴールだから、練習で手を抜いても仕方がないか、と誰も文句を言わなかった」

 かつてバルセロナ時代のボビー・ロブソン監督は「戦術はロナウド」と言い放ったが、まさに当時日本代表の戦術は釜本を軸にしていた。前述の同僚コメントを立証することになるのが、メキシコ五輪を迎える1968年初頭のドイツ留学である。タイミングが悪くチームはウインターブレイク中でオフ。仕方がないので映写機を持ち出し昔の名場面を繰り返し見ていたのだが、この2か月間で「見違えた」と誰もが口を揃える。天才はイメージだけで進化した。そのまま五輪本番では得点王を獲得し、チームを銅メダルに導いたのは周知の通りだ。ボールを蹴り始めてわずか10年あまりでの快挙だった。

 アマチュア時代の日本代表選手たちは、欧州クラブへの練習参加を繰り返していたので、釜本とトップレベルの比較は出来た。

「当時世界最高のストライカーはゲルト・ミュラー。そのミュラーと得点王争いをしていたユップ・ハインケスと比べても見劣りしなかった」(日本代表の同僚だった落合弘)

つづく

6/29(月) 6:03 サッカーダイジェスト
https://news.yahoo.co.jp/articles/b54d8588e7b83755b5ef3b8766230f336c1b02a1



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