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1: 2020/06/23(火) 03:02:16.44
お笑いトリオ・パンサーの尾形貴弘は名門・仙台育英高校で10番を背負い、中央大学の体育会サッカー部に所属。

川崎フロンターレに所属する中村憲剛選手の先輩でもある(尾形が4年生のとき、中村選手は1年生)。
昨年よりボルシア・ドルトムントのブランドアンバサダーを務め、「自分の人間性を作ったのはサッカー」と豪語するほど尾形に、サッカーとの思い出を語ってもらった。

ドリブルの楽しさ"に引き込まれた

僕は宮城県の東松島で育ったのですが、野球やサッカーといったスポーツをやっている人がほぼいない田舎でした。サッカーとの出会いは小学1、2年生の時。神社の鳥居をゴールにしてボールを蹴っている年上のお兄ちゃん方がいて、彼らに誘われて仲間に入れてもらいました。そこで、お兄ちゃん達全員を抜いたんですよ。

「こんな気持ちいことってあるのか!」と感じたのを鮮明に覚えています。あまりに楽しくて、帰ってから家族に「サッカーをやりたい」と伝えました。すると父親がすぐにサッカークラブを探してくれたんです。地元の小学校のクラブは5年生からしか入れなかったのですが、少し離れた町にチームを発見して、そこに入りました。

放課後、赤いジャージに着替えてボールを持って、毎日電車で通っていました。漫画みたいな話ですけど、最前の車両から最後尾の車両までドリブルで乗車客を抜いたり、リフティングしたり、と。移動中も練習をしていて、地元では有名でした。高校生になった時に「電車でサッカーをやっていたあの子か!」と何度も言われました。

サッカーを始めた原点が"人を抜く楽しさ"だったので、小学生の時からずっとドリブラー。パスはしないで、全員抜いて自分でゴールまでボールを運んでいました。

中学も高いレベルでサッカーをしたい思っていた中、松島の学校の監督にお声がけいただき、単身で乗り込みました。中1から一人暮らしをしてたんですよ。

ただ、チームではスイーパーをやらされました。ドリブルが好きだったので前線をやりたかったのですが、後ろを任されたんです。「なんで後ろなんだよ」と思いながらプレーしていたんですけど、結果的に後々に生きました。高校に入ると自分のドリブルは通用しなくなって、ボランチに落ち着いたのですが、中学時代にポジショニングやディフェンスを学んでおいてのがここで活かされました。当時の先生には感謝ですね。でも、チームで一番点をとっていたのは僕だったんですよ!後ろからドリブルで全員抜いて、と。

そして、地元でドリブルという武器で結果を残し続けたことによって、宮城県選抜に入ることが出来ました。選抜の練習場所は仙台だったのですが、そこで大きな衝撃を受けましたね。

仙台は東北でも都会なので、かっこいいチームメイトが多かった。アシックスやプーマのジャージを着ているんですよ。僕が着ているのはノーブランドで、野球のスパイクみたいなものを履いていて。恥ずかしくなり、プレーも消極的に。劣等感があったせいで、得意なドリブルをせずにバックパスばかりで自分の特徴を全く出せない。辛い日々が続きました。

■気持ちを取り戻させた父親の一言

ある日、選抜の練習に行く途中に車の中で親父から「勘違いしていないか。お前に誰も期待していないし、お前がサッカーが上手いとかはどうでもいい。楽しくやればいいんだよ!」と言われたんです。その一言がガツーンと来て。その日の練習は吹っ切れて全員をドリブルで抜いて、レギュラーにもなりました。この経験は本当に大きかったです。大学、そして社会人までサッカーを続けられたのは親父のこの一言のおかげです。

仙台育英へ進んだのは中学校の県大会がきっかけです。結果は良くなかったのですが、当時の監督であるブラジル人のムニールさんが声をかけてくれて、育英のサッカー部に入ることが出来ました。特待生ではないのですが、優遇がとても良かったんです。合宿や練習着、1年生16人だけが行けるドイツへのサッカー留学にもお金がかかりませんでした。

6/22(月) 18:30
https://news.yahoo.co.jp/articles/d2a051f1d0d179268fecd099aadb5586e6a4f950