1: 2021/02/14(日) 18:03:38.40 _USER9
※デイリー新潮(小林信也)

1968年メキシコ五輪、サッカー日本代表は3位決定戦で地元メキシコを破り、銅メダルを獲った。立役者は大会を通じ7点を挙げ得点王に輝いた釜本邦茂。 「私がやることは単純でした。ゴールを決めること。代表の合宿に行っても、シュートの練習ばっかり。あとは杉山さんとのコンビネーション。最初はうまいこと合わなかったんだ。お互いの癖が全然わからなくて」

 釜本が振り返る。殊勲者はもちろん釜本のほかにもいた。前線にロングフィードを送った小城得達(ありたつ)。そして「黄金の左足」杉山隆一。小城、杉山、釜本のホットラインが得点源だった。  銅メダル獲得は日本の子どもたちの遊びを変えた。少年たちが大きなボールを蹴り始めた。野球少年だった小学校6年の私も休み時間にはグラウンドに飛び出し、サッカーに興じた。真似をするのは杉山であり、GK横山謙三だった。釜本の真似はできなかった……。 「オリンピックの前、杉山さんは調子が悪かった。結婚して太ったせいかね」  メキシコ五輪に向けたヨーロッパ遠征で、日本代表は11連敗も記録した。 「杉山さんのせいだって、非難ゴウゴウだった。それでも長沼監督と岡野コーチは使い続けた。10月には必ず合わせてくるって」  首脳陣の期待どおり、杉山は復調した。 「不思議でしょうがないんだけど、メキシコ五輪が始まったら、杉山さんとの呼吸が合うようになった」  メキシコ五輪で釜本が決めた7点のうち、4点は杉山のアシストから生まれたゴールだった。その背景には杉山の復調があり、釜本の成長があった……。

ペレの真似はできないが

 メキシコ五輪イヤーの1月、釜本は「日本サッカーの父」デットマール・クラマーの勧めで西ドイツの1.FCザールブリュッケンに短期留学した。約3カ月、後に西ドイツ監督になるユップ・デアヴァルの薫陶を受けた。その留学が釜本のサッカー人生を大きく開花させたと言われる。訊ねると釜本はあっさり言った。 「その時期のザールブリュッケンは寒くてね、ほとんど外で練習できなかった。せいぜい室内サッカー。3カ月、ヨーロッパの空気を吸いに行っただけだった」

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https://news.yahoo.co.jp/articles/5b0dfce5cea52d9bf4c0d352190d2a6d50587c46
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