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リアル評


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<ドイツ人記者に訊く>香川、内田、高原、長谷部…ブンデス1部でプレーした日本人選手の「リアル評」は? 

1: 2020/05/18(月) 08:28:21.01
奥寺が好印象を残したにもかかわらず…
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 5月16日にようやくブンデスリーガが再開したが、コロナ禍のなか、いつもなら熱狂に包まれるドルトムントとシャルケのダービーも、無観客で行なわれた。

 そのレビア・ダービーでファンの心を掴んだのが、香川真司だった。ドルトムントのユニホームを纏って初めて臨んだシャルケ戦でいきなり2得点を決め、チームを敵地での勝利に導いたのだ。試合後、チームバスでドルトムントへ帰った日本人MFは英雄として迎えられ、歓喜するファンたちに肩車されたものだ。

 香川が愛されたのは、ダービーに強かったからだけではない。成功を収めたチームの重要な柱のひとりだったからだ。ユルゲン・クロップ監督の下で、攻撃的MFとして2010-11、11-12シーズンとブンデスリーガ連覇、11-12にはDFBカップとの2冠を達成。世界中から注目され、マンチェスター・ユナイテッドへと羽ばたいていった。

 そのイングランドの名門では本領を発揮できなかったサムライ戦士を、14年夏の移籍市場最終日にドルトムントが買い戻した。それは、ソーシャルメディアで「#freeShinji」キャンペーンを行なうなど、香川を連れ戻してほしい訴えたファンの願いを叶えるためでもあった。どれだけこの男が愛されていたかが分かるだろう。
 
 香川と同様に、ブンデスリーガでもトップのカテゴリーに入る名手だったのが、内田篤人だ。17年にウニオン・ベルリンへ移籍するまでシャルケで7シーズンに渡ってプレーした右SBは、攻守両面でハイレベルだった。

 そのふたりが活躍する随分前、1977年の夏にブンデスリーガの日本人第1号となったのが、ケルンへやってきた奥寺康彦だった。ドイツの3チームでプレーし、ケルンでの1シーズン目には、リーグとカップ戦で2冠を獲得した。その後にビーレフェルトでプレーした尾崎加寿夫が続いたが、正直、ほとんど記憶に残っていない。

 奥寺が好印象を残したにもかかわらず、尾崎以降はブンデスリーガではしばらく日本人不在の時代が続き、3人目の高原直泰がハンブルクにやってきたのは03年冬だった。当初は懐疑的な見方もあったが、ハンブルクとフランクフルトで計5年間プレーし、135試合に出場して25ゴール。エキゾチックな存在だった“スシボンバー”は、クオリティーの高さを証明し、その後に続く多くの日本人選手のために道を切り拓いたとも言える。

つづく

5/18(月) 6:00 サッカーダイジェスト
https://news.yahoo.co.jp/articles/6e86c29cb4ef7ba84f588017b88f7811c7df19a2

<カズ、中田、中村、本田…>セリエAを彩った歴代日本人選手の「リアル評」は?―― イタリア人記者に訊く 

1: 2020/05/06(水) 09:32:43.73
●1試合プレーするごとにスポンサーが金を払う

1993年夏に“キングカズ”がジェノアと契約して以来、のべ12人の日本人選手がセリエAでプレーしてきた。
メディアやファンの目も厳しいこの世界屈指のリーグで、ジャポネーゼたちはいかなる印象を与えたのか――。ベテランのイタリア人記者に訊いた。

―――◆――◆―――

もしイタリアのどこかのチームが日本人GKを獲得していたならば、セリエAでプレーした日本人選手だけでひとつのチームが作れたはずだ。それもなかなか豪華な。
イタリアに好印象を残していったサムライは少なくない。中にはその実力を発揮できずに去っていった者もいたが、それでも真面目さ、プロフェッショナル精神、向上心はイタリア人の心に残り、チームメイトたちに良い影響を与えた。
日本の伝統的な教育の賜物だろう。

最初にイタリアにやって来た日本人は三浦知良(現・横浜FC)だった。1993年当時のジェノアの会長アルド・スピネッリは、ヴェルディ川崎でプレーするカズの姿を見て感銘を受けた。そのテクニック以外にも魅力的な点があった。
イタリアではジェノバ人は一般的に“ケチ”“金に汚い”と言われているが、スピネッリもその例に漏れない。彼が三浦獲得を決めたのは、ジャパンマネーを見越してだった。1試合プレーするごとにスポンサーが金を払う――。こうして契約は成立した。

結局、三浦は21試合に出場して1ゴールを決め、スピネッリは“円”を手に入れた。1シーズンで契約は終了し、日本のスターは去っていた。しかし、残した功績は小さくない。このパイオニアのおかげで“壁”は取り払われた。
イタリア人にとって、それまで日本はサッカー未開の地だった。「世界最高峰」を謳っていたセリエAとは無縁のものだと考えられていた。その概念を打ち壊したのが、このストライカーだったのだ。
おかげで、98年夏に中田英寿がイタリアにやって来た時、「寿司がピザの国に何をしに来たのか」とは、決して言われなかった。おかげで若き司令塔はサッカーに集中することができた。

それにしてもヒデは本当に優秀だった。残留できれば御の字のペルージャでのデビュー戦で、ユベントスを相手に名刺代わりの2ゴールを奪ったインパクトは絶大だった。今でも多くのイタリア人があの時の衝撃を覚えている。
翌シーズンの途中に移籍したローマでは、2年目に歴史的スクデット獲得に貢献。イタリアでプレーした日本人の中で、間違いなくもっともレベルの高い選手だった。
ライバルだったバンディエーラ(旗頭)のトッティがいなければ、ヒデはローマでもっと活躍できたはずだ。それでも、残した印象はこれ以上ないほどポジティブだった。カズが壁を壊し、ヒデが日本人選手のイメージを変えた

5/6(水) 6:41配信 サッカーダイジェスト
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200506-00072816-sdigestw-socc

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