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1: 2021/02/16(火) 22:20:05.66 _USER9
 神に感謝――僕たちは、外国籍選手が神に感謝している姿や言動を、すでに「サッカーでよく見る光景」の一部として受け入れていて、そこに改めて違和感を持つ人は少ないのではないでしょうか。たとえばモハメド・サラーが得点後に地面に額をつける姿を見ても「そういうゴールパフォーマンス」くらいの認識が定着しているように思います。

 けれど、サラーが祈りを捧げることと、(たとえば)日本人が「かめはめ波」のゴールパフォーマンスをすることでは、持つ意味合いが全く異なります(鳥山明さんが「神」かという議論は他に譲ります)。

「神を信仰する」がサッカーに与える影響

 僕たちは普段、宗教とサッカーを切り離して考えています。少なくとも、積極的に関連づけようとはしていません。しかし、サッカーが西洋・南米を中心に発展してきたスポーツである以上、必然的に両者は、容易には切り離せないほど深く結びついています。

 大多数の日本人は(僕自身も含めて)、特定の宗教信仰を持ちません。自分の宗教観、何をどれくらい信仰し、それがどう日常生活とリンクしているのか、説明できる人は多くないはずです。それが良いとか悪いとか、そんなことを述べるつもりは寸分もありません。しかし僕が海外で生活を送ってきた中で、例えば試合前に膝をつき、肩を震わせながら祈りを捧げる選手や、眠る前に必ず聖書を読む同部屋の選手、オフの日に教会の枯葉を掃きに行く選手たちを見てきて、その挙動が一過性のパフォーマンスではないことは断言できます。

 たとえば、決定的なシュートを外したとき、パスミスをしたとき。

 僕たち日本人の多くは「味方に謝る」ことを選択します。そうした日本人選手の姿は、すぐに思い浮かぶのではないでしょうか(反対に外国籍選手が即座に謝っている姿は想像がつきにくいのではないでしょうか)。ほぼ無意識に、周囲に対して、自分の失敗であることを表明します(小学生から社会人まで、試合中に「ごめん」とか「わりぃ」がこれほど頻回に往来するのは、日本サッカーの特徴的な光景のように思います)。

 対比して、一人の神を信仰する「一神教徒(キリスト教、イスラム教、ユダヤ教)」の人たちを観察していると、彼らは決定的なミスの直後でも、すぐに味方に謝ったり、自分の失敗であることをすすんで表明したりはしません。

 では、どうするのか。彼らはまず、神様と対話します。キリスト教徒であれば、十字を切る。自分の第一感情が向かうのは、周囲や、場ではありません。もちろん空気でもありません。そこにはまず、自分と神様がいて、他者が入る余地はありません(僕自身が信仰を持つわけではないので正確な心象描写はできませんが)。
★抜粋
https://number.bunshun.jp/articles/amp/846977?page=1
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