スクリーンショット 2023-05-12 18.39.28

スポンサード リンク

◇当事者たちが語る軌跡と未来

 1993年5月15日に誕生したJリーグが30周年の節目を迎える。「地域密着」を大看板に掲げ、クラブ数は「10」から「60」へ拡大。競技レベルは上がり、世界へ飛躍する選手も増えた。前例のないプロリーグの挑戦は30年の月日を経て、どのような成長曲線を描いてきたのか。連載「J30年の冒険」で当事者たちの証言でたどる。

  ◇

 J2大宮で強化、育成、普及を統括する原博実フットボール本部長(64)は現役時代、浦和の前身・三菱重工サッカー部でフォワードとして活躍した。当時、Jリーグの加盟申請にはプロ契約の日本人選手3人以上の在籍が条件だったため、1990年に名取篤、広瀬治とともにサラリーマン選手からプロ選手へ移行。だが、Jリーグが創設される前年の1992年5月、現役を退いた。後ろ髪を引かれる思いを抱きながら…。

 「33歳だったかな。まだ選手をやりたかったな。プロとしてJリーグのピッチに立ちたかったよ。今では信じられねぇんだけど、当時はプロの指導者がいなくて、『おまえ、コーチやれよ』って。いずれは指導者になりたい思いはあったけど、次の日からトップチームのコーチだったね」

 トップとサテライトのコーチ、ユース監督を務め、98年には浦和監督に就任。スペイン代表ベギリスタイン、ユーゴスラビア代表ペトロビッチに新人だった小野伸二を絡めて攻撃的なサッカーを展開し、セカンドステージでは3位に躍進した。

 ただ、翌99年は故障者が重なって低空飛行が続き、クラブには脅迫メールが届く異常事態に陥った。「けが人が戻ってきたら、絶対にJ2に落ちるようなチームじゃないと思ってたんだけど、クビになる時はクビになるんだなって」。同年6月、成績不振を理由に志半ばで解任された。

 その年末、横山謙三ゼネラルマネジャーから浦和ユースの監督就任を打診されたが、「『辞めます』って言ったんだよ。浦和に残れば安定するけど、『そういうのはプロじゃねぇな』って思ったんだ」。監督として結果を残せなかった以上、クラブに残るべきではないと身を引いた。

 解説業を経て、2002年にFC東京の監督に就くと、04年11月のナビスコ(現ルヴァン)杯決勝で浦和と激突した。闘莉王、長谷部誠、鈴木啓太、三都主アレサンドロ、田中達也、エメルソンら代表クラスが居並ぶ古巣に対して、「腰の引けた戦いをしても面白くない。『ガンガン行くよ!』って言ったら、ジャーンが退場になっちゃった」

 前半29分、ブラジル人センターバックが2度目の警告処分を受け、すぐさま藤山竜仁の投入を決断。アタッカーの石川直宏、戸田光洋ではなく、ボランチの三浦文丈をベンチへ下げる勝負手に打って出た。

 「今でも思ってるよ。『無謀だな』って。ストッパーがいなくなったのに、中盤を減らして戦うチームなんて見たことがない。だけど、本能的に『そうしないと、やられちゃう』と思ったんだ」。激闘の末、J2から参入した”新興クラブ”に初タイトルをもたらす歴史的快挙だった。

 日本サッカー協会の技術委員長や専務理事、Jリーグ副理事長を歴任した。22年4月、低迷する大宮から再建を請われ、「じゃあ、行きます」と即答で難局に飛び込んだ。月日がたっても、その原動力はいつも同じだった。サッカーのため、クラブのため、選手のため、ファンのため―。

 「日本全国にいろんなクラブがある。勝つクラブがあれば、育つクラブもある。J1だけじゃなくて、J2、J3もあることがJリーグの魅力なんだよ。いまは、大宮に関わる人たちが成長できるクラブにできればいいなと思っているね」

 ▼原博実(はら・ひろみ) 1958年10月19日生まれ、栃木県黒磯市(現那須塩原市)出身の64歳。現役時代はヘディングが武器のストライカーで早大、三菱重工(現浦和)でプレー。日本代表では国際Aマッチで歴代4位タイの通算37得点。浦和監督などを経て、2004年にはFC東京監督としてナビスコ杯初優勝。日本サッカー協会技術委員長、同専務理事、Jリーグ副理事長を歴任。22年4月、大宮フットボール本部長就任。

中日スポーツ



スポンサード リンク

ブログランキング にほんブログ村 サッカーブログへ