スクリーンショット 2023-04-21 8.46.54

スポンサード リンク

近年では多くの日本人選手が海外クラブへ移籍している。しかし、中田英寿や中村俊輔、香川真司のように活躍できた選手もいれば、チャンスを掴めずにJリーグに復帰する選手も少なくない。今回は、海外クラブで活躍できなかった日本人選手10人を紹介する。(※成績などのデータは『transfermarkt』を参照)

FW:三浦知良

生年月日:1967年2月26日
主な所属クラブ:サントス(ブラジル)、ジェノア(イタリア)、ディナモ・ザグレブ(クロアチア)、シドニーFC(オーストラリア)
 
 キングカズこと三浦知良は静岡学園に進むも、高校1学年修了の前に中退し、単身でブラジルへ渡りCAジュベントスに加入した。サッカー王国で挫折を味わいながらも、サッカー選手になるという夢を諦めなかったカズは、1984年にECキンゼ・ジ・ノヴェンブロへ移籍。1986年に行われえたサンパウロ州選手権(U-21)に出場すると、同大会での活躍により、同年にサントスFCとのプロ契約を勝ち取った。

 その後はブラジルの数々のクラブでプレーしたが、1990年にヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)へ移籍。同クラブに数々のタイトルをもたらし、1992年には日本年間最優秀選手賞、1993年には同賞とアジア年間最優秀選手賞を受賞した。また、同年12月にACミランが主催したチャリティマッチ「ACミラン クリスマス・スターズ」に世界選抜として出場。翌年にはジェノアへレンタル加入し、アジア人で初めてセリエAでプレーする選手となった。

 上記したように、カズは数々の偉業を成し遂げた。しかし、当時世界最高峰と言われたセリエAでは苦悩。第12節のサンプドリア戦でセリエA初ゴールをマークしたが、ジェノアで決めた得点はこの1点のみ。イタリアでは成功を収められなかった。

MF:名波浩

生年月日:1972年11月28日
主な所属クラブ:ヴェネツィア(イタリア)
 
 日本が誇る左利きの名手、名波浩も海外クラブでは活躍することが出来なかった。1995年に加入したジュビロ磐田でプロデビューすると、同年に日本代表デビューも飾った。加茂周監督の下で代表に定着すると、10番を背負い、フランスW杯全試合に出場。同大会後にセリエAのヴェネツィアへレンタル移籍を果たした。

 名波は、前シーズンまで在籍したアルバロ・レコバの穴埋めとして期待されたが、公式戦31試合で2得点のみと揮わず。コッパ・イタリア(国内リーグ)では準決勝進出に貢献したが、シーズン途中の監督交代もあり、リーグ戦出場は24試合に留まった。

 98/99シーズンにチームを牽引したレコバのような活躍が出来ず、99/00シーズンのヴェネツィアは16位でフィニッシュ。セリエBに降格となり、名波はシーズン終了後に退団となった。

FW:城彰二

生年月日:1975年6月17日
主な所属クラブ:レアル・バジャドリード(スペイン)
 
 歴代日本屈指のストライカー、城彰二も海外クラブで活躍できなかった選手の1人だ。1994年にジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)でプロデビュー。1996年に開催されたアタランタ五輪で”マイアミの奇跡”の立役者の1人となると、同年10月に日本代表デビューを果たし、日本のW杯初出場となったフランスW杯に臨む日本代表メンバーに選出された。

 フランスW杯では無得点に終わったが、城は同大会後のJリーグで得点を量産した。すると、2000年1月にスペインのレアル・バジャドリードへのレンタル移籍が決定。念願の欧州リーグへの挑戦を勝ち取った。

 バジャドリードでの得点はわずか2得点に留まったが、城はリーグ戦15試合中12試合に先発出場。当時のグレゴリオ・マンサーノ監督からは高い評価を受けていた。しかし、シーズン終了後のメディカルチェックで、10代の頃に痛めた膝を治療もせずにプレーを続けていたことが発覚。これが契約更新の障害となり、2000年8月に欧州での旅は終わることとなった。

GK:川口能活

生年月日:1975年8月15日
主な所属クラブ:ポーツマス(イングランド)、FCノアシェラン(デンマーク)
 
 歴代最高の守護神、川口能活も海外クラブへ挑戦した選手の1人だ。1994年に横浜マリノス(現横浜F・マリノス)に加入すると、1995シーズンにはクラブ史上初のJリーグ制覇に貢献した。さらに翌年には、21歳ながら日本年間最優秀選手賞を受賞。1997年以降は日本代表の守護神の座も勝ち取ると、日本を史上初のW杯出場に導いた。

 Jリーグと日本代表で圧巻のパフォーマンスをみせた川口は、2001年10月にポーツマスへ移籍。日本人GKとして初の欧州クラブ移籍を果たした。しかし、日本最高のGKと言えど、欧州リーグでは苦戦を強いられた。

 トップチームでの出場は「0」。FAカップやリーグカップでベンチに入ることはあったが、在籍した約1年9ヵ月のほとんどをリザーブチームで過ごすこととなった。トップチームでの出場機会を求めた川口は、2003年7月にデンマークのFCノアシェランへの移籍を決断した。だが、同クラブでも定位置を掴むことは出来ず。公式戦出場は1試合に留まり、新天地でもチャンスを掴めなかった同選手は、2005年1月に退団した。

FW:西澤明訓

生年月日:1976年6月18日
主な所属クラブ:FCフォレンダム(オランダ)、エスパニョール(スペイン)、ボルトン(イングランド)
 
 日本を代表するストライカーの1人、西澤明訓はセレッソ大阪でゴールを量産。公式戦通算352試合に出場し、歴代2位となる111得点を記録している。Jリーグでは見事な活躍をみせたが、欧州リーグではほとんど活躍できなかった。

 西澤は1995年にセレッソへ加入すると、同年7月にオランダのFCフォレンダムへレンタル移籍。しかし、約5ヵ月間在籍するも公式戦には出場できず、12月にセレッソ大阪へ復帰している。

 その後、5シーズンに渡りセレッソでプレーすると、2001年1月にはエスパニョールへ移籍。再び欧州へ旅立った。だが、公式戦出場は6試合のみ。同年7月にはイングランドのボルトンへ活躍の場を移したが、ここでもリーグカップ戦3試合の出場に留まり、2002年1月にセレッソへ帰還。2度の欧州リーグへの挑戦は、失敗に終わってしまった。

MF:小笠原満男

生年月日:1979年4月5日
主な所属クラブ:メッシーナ
 
 鹿島アントラーズのレジェンド、小笠原満男は2000シーズンに就任したトニーニョ・セレーゾ監督の下で定位置を確保。同シーズンにJリーグ史上初の3冠達成に貢献した。以降もクラブの中心選手として活躍すると、2002年には日本代表デビュー。日韓W杯とドイツW杯に2大会連続で出場した同選手は、2006年8月にセリエAのメッシーナへレンタル移籍した。

 06/07シーズン第3節のレッジーナ戦でセリエAデビューを果たすと、第5節のASリヴォルノ戦では初の先発出場。イタリアでも鹿島在籍時のような活躍が見られるかと思われたが、そう簡単にはいかなかった。

 第7節以降はベンチを温める日々。2006年11月に行われたコッパ・イタリア(国内カップ)ベスト16のインテル戦ではフル出場するも、2007年に入るとベンチ外が続いた。チャンスは与えられず、飼い殺しとなった小笠原は同年6月にメッシーナを去った。

MF:戸田和幸

生年月日:1977年12月30日
主な所属クラブ:トッテナム(イングランド)、ADOデン・ハーグ(オランダ)、慶南FC(韓国)、ウォリアーズFC(シンガポール)
 
 戸田和幸が海外クラブへ移籍したのは、2003年1月のこと。高校卒業後の1996年に清水エスパルスに加入。同クラブで評価を高めると、2001年に日本代表デビューを果たし、日韓W杯に日本代表メンバーに選出された。同大会で全試合にフル出場すると、その活躍により、2003年1月にトッテナムへのレンタル移籍を勝ち取った。

 しかし、ダレン・アンダートンらが在籍したトッテナムでは出場機会を得ること出来ず。出場はリーグ戦4試合に留まり、シーズン終了後にエスパルスへ復帰することとなった。2004年1月にはオランダの ADOデン・ハーグへレンタル移籍。ここでは主力としてプレーしたが、同年6月に古巣へ帰還している。

 その後、東京ヴェルディやサンフレッチェ広島など、Jリーグの様々なクラブで活躍した戸田は、2009年1月に韓国の慶南FC、2013年1月にはシンガポールのウォリアーズFCへ加入。日本を含めた5か国でプレーした戸田は、2013シーズン終了後とともにスパイクを脱いだ。

FW:柳沢敦

生年月日:1977年5月27日
主な所属クラブ:サンプドリア、メッシーナ
 
 高校卒業後の1996年に鹿島アントラーズに加入した柳沢敦は、1998シーズンに22得点を決めるなどゴールを量産した。1998年には日本代表デビューを果たすと、2000年に行われたシドニー五輪ではベスト8進出に貢献し、2001年には日本年間最優秀選手賞を受賞。国内最高の選手という評価を受けた同選手は、日韓W杯に臨む23人に選出され、日本初のベスト16進出に貢献した。

 プロデビューから目覚ましい活躍を続けていたが、海外では苦戦を強いられることとなった。2003年7月にイタリアの古豪サンプドリアへ移籍を果たしたが、同クラブでは公式戦18試合に出場するも無得点。結果を残すことが出来ず、2004年7月にメッシ―ナへレンタル移籍に出された。

 しかし、クラブが変わっても結果はほとんど出すことが出来なかった。2004年8月に行われたコッパ・イタリア(国内カップ)のアシレアーレ戦でイタリアでの公式戦初ゴールを決めたが、在籍期間中に決めたのはこの1点のみ。慣れないウイングや2列目での起用に応えることができず、2006年2月、期限付き移籍で鹿島に復帰。イタリアでのプレーは3年弱で幕を閉じた。

MF:財前宣之

生年月日:1976年10月19日
主な所属クラブ:ラツィオ(イタリア)、ログロニェス(スペイン)、リエカ(クロアチア)
 
 中田英寿が認めた天才、財前宣之は1993年に開催されたU-17世界選手権で圧巻のパフォーマンスを披露。日本のベスト8進出に貢献し、ベストイレブンに選出された。その活躍により、財前は高校卒業後の1994年にヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)とプロ契約を結んだまま、セリエAのラツィオへ留学。同ユースではアレッサンドロ・ネスタともプレーし、トップチームの練習にも参加していた。

 若くから世界に才能を示した財前は、1996年にスペインのログロニェスへレンタル移籍した。しかし、同クラブ加入の数ヵ月前に、財前は左膝の前十字靭帯を断裂していた。そのため、治療とリハビリを行ってからスペインへ渡ったが、完全には回復しておらず、加入から3ヵ月で再び前十字靭帯を断裂。この負傷により、選手登録もされず、退団となってしまった。

 活躍を焦ったのか、スペインでの挑戦は左膝の怪我により終了。将来を期待された天才は、欧州で挫折を味わった。その後、1998年に復帰すると、以降はベガルタ仙台やモンテディオ山形でプレーした。2010年からはタイへ渡り、ムアントン・ユナイテッドFC、ポリス・テロFCでプレーし、2012年にスパイクを脱いだ。

DF:宮本恒靖

生年月日:1977年2月7日
主な所属クラブ:RBザルツブルク(オーストリア)
 
 のちに日本代表で主将も務めた宮本恒靖がガンバ大阪でトップチームデビューを飾ったのは1995年だった。1997シーズン・ファーストステージ後半戦から定位置を確保すると、2000シーズンにはキャプテンに就任。2005シーズンには、クラブ史上初のJリーグ制覇を成し遂げた。

 宮本がRBザルツブルクへ移籍したのは、2007年1月のこと。シーズン途中の加入ながらすぐに出場機会を得ると、同シーズンのリーグ優勝に貢献した。翌シーズンにはコンスタントに出場すると、同年12月には契約を1年半延長する。初の欧州リーグ挑戦は順調かに思われた。

 しかし、2008年1月に左太腿裏の腱を断裂。約7ヵ月ぶりの戦線離脱を強いられてしまった。同年8月には国内カップに出場したが、08/09シーズンから就任したコー・アドリアーンセ監督の下では出場機会が減少。復帰後はリーグ戦での出場機会が無く、活躍の場を失った宮本は2009年1月にヴェッセル神戸への移籍を決断した。



スポンサード リンク

ブログランキング にほんブログ村 サッカーブログへ