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 サッカーJリーグ・大分トリニータを運営する大分フットボールクラブ(FC)の元社長、青野浩志さん(66)は、経営危機に陥ったチームの再建に尽力した。持ち前の反骨精神を原動力に苦難を乗り越え、県民に愛されるチームに育てた。その足跡をたどる。(橋本龍二)


 大分県臼杵市のミカン農家に生まれた。4人兄弟の末っ子で、野山を駆けまわる活発な子どもだった。中学でバスケットボール部に入った。「用具代があまりかからず両親に負担をかけない」のが理由だった。

 成績優秀だった3人の兄と比較されるのが嫌で、幼少期から負けん気の強さと反骨精神は人一倍だった。長崎県立大経済学部を卒業し、「日本経済を支える仕事」と証券会社に就職した。

 しかし、会社の方針に納得できず1年で退職。実家に戻ったが親に迷惑はかけられない。地元に貢献したいと猛勉強の末に公務員試験に合格し、小・中学校の事務職員を経て25歳で大分県庁に入った。財政や福祉関係の部署を歩み、県立看護科学大の創設に奔走した。

 2006年、畑違いの文化スポーツ振興課に配属されたことが運命だった。当時J1の大分トリニータを運営する大分FCの経営を監視する担当だった。スポンサー企業の撤退などで経営危機に陥っていた。

 経営状況を知るため、社員に財務内容の開示を求めると、渡されたのは明らかに「対外的な」資料。「本当の資料を出しなさい」と迫り、出てきた数字に目を疑った。チケット収入の見通しなど、ずさんな計画を基にした経営で、資金繰りが窮するのは明らかだった。県庁職員の役割を超えても「チームを絶対に潰さない」と、小沢正風総務部長(現社長)と金融機関を回って支援をお願いした。小沢さんは「青野さんは根っからの負けず嫌いで根性がある。戦友だ」と語る。

 一方でチームは快進撃を続けた。08年のカップ戦で優勝し、リーグ戦は最高の4位に入った。皮肉にも選手の年俸が上がり経営を圧迫する。逆に、翌09年は成績不振でチケット収入が激減し経営悪化に追い打ちをかけた。資金不足は秒読みだった。

 09年8月、大分FCの経営企画部長への出向を命じられた。経営の経験はなかったが、「与えられた仕事をするしかない」と決意した。それが波乱の人生の幕開けだとは思いもよらなかった。

 「外から見ていたのと全然違う。これではダメだとはっきり思った」。大分FCの経営の実態を知って言葉を失った。

 負債が資産を上回る債務超過額は10億円を超え、警備など委託業者への未払い金は2億円を超えていた。「こんな状況で上層部が給料をもらってはだめだ」。社長に直談判して自身を含め幹部社員の給料を遅らせた。

 資金繰りに猶予はない。翌月、Jリーグの鬼武健二チェアマン(当時)と早速面会して支援を要請した。目的は、運営費としての分配金を前倒しで支給してもらうことだった。財政難のチームを助けるために創設されたリーグの基金から融資を受ける交渉も同時に始めた。

 クラブ存続の危機に6億円の融資が決まった。ただリーグは条件として経営陣の刷新と再建計画の提出を求めた。返済期限は3年後。返済が遅れれば、J1には戻れない。

 09年12月、人件費の削減を柱とした再建計画をまとめ、株主を集めて説明した。「なぜ膨大な債務超過を放っておいたんだ」。経営陣への批判が飛び交ったが、何とか了承してもらった。

 疲れ果てて帰途につくと副知事から電話があった。嫌な予感がした。「県庁にすぐ来てくれ」。待ち構えていた広瀬勝貞知事から大分FCの社長就任を打診された。再建計画に追われ、即決できる精神状態ではなかった。「一晩考えさせてください」と回答を保留したが、家に帰り「自分がやらないと誰がやる」と腹をくくった。

 年明け10年1月の社長就任が決まった。その前に選手との契約更改という大仕事が待っていた。ここで大なたを振るう。「年俸1000万円超の選手は放出」とし、他クラブへの移籍を原則自由にした。日本代表経験者や長年プレーしたベテラン選手もチームを去った。非情な決断は、チームを救うために仕方なかった。

 大分FCの社長に就任した2010年シーズンは、8年ぶりにJ2でのスタートだった。経営もリーグの基金から借りた6億円の返済に追われる自転車操業だった。一方で、J1時代より予算規模が縮小し、「再建に向けた準備期間になった」とも振り返る。

 10年夏、大がかりなリストラを断行した。試合運営のスタッフを削減し、希望退職を募って社員30人のうち約3割が応じた。残った社員には、通常より1時間半早く出勤してもらい、入場客を誘導する柵の設置などを自前に切り替え、経費を年間約2000万円浮かせた。全社員の給与も最大2割カットした。

 これらコスト削減で大分FCは10年以降、毎年1億円以上の利益を出した。だが金融機関からの借り入れもあり、自力でリーグに完済するのは事実上不可能だった。返済期限が迫り、「県民に頼るしかない」と最後の手段に打って出た。12年5月、1億円を目標に「J1昇格支援金」として募金活動を始めた。「目標を達成できなければクラブは消滅してしまう」と極度のプレッシャーは体に変調を引き起こす。左耳の突発性難聴を患い、耳鼻科に通院を始めた。

 ある日、病院で高齢女性に「青野さんですか?」と呼び止められた。「支援金のニュースを見て、いつか本社に持って行こうと思っていて」と、そっと5000円を手渡してくれた。「県民は存続を願っている。本気で頑張らなければ」。決意を新たにした瞬間だった。

 連日、街頭で支援を呼びかけた。選手や監督だけでなく、サポーターが参加してくれたことが何よりうれしかった。「経営努力を放棄して県民にお金を出させるのは経営者失格」。聞こえてくる厳しい声は当然だった。

 日中は街頭に出て、夕方から社長業務をこなし、帰宅時間はいつも深夜だった。ただ支援金のニュースは連日報じられ、「浸透している」と手応えを感じ始めていた。当初の不安は取り越し苦労となり、3か月で約1億2000万円が寄せられた。リーグへの完済まで残り2億円を切った。

 12年9月、完済に向けてスポンサー企業との交渉を加速させた。募金活動の成功で大分トリニータ存続への機運が高まり、追い風が吹いていた。本拠地のピッチを取り囲む看板スポンサーとして約80社から計1億円が集まり、大分県や市町村会も1億円を拠出してくれた。募金と合わせ、目標の3億円を達成した。

 経営危機を脱しようとしていた頃、チームはJ1昇格のチャンスをつかんでいた。リーグ戦を6位で終え、プレーオフであと1勝に迫っていた。J1昇格で新たなスポンサーや出資者を獲得し、一気に再建を果たす――。そんな絵を描いた。

 対戦相手は通算で大きく負け越す天敵のジェフユナイテッド千葉。11月23日の決戦の前日、スタッフと会食し、「9割攻められても1割のチャンスが必ず訪れる。選手と監督を信じよう」と鼓舞した。翌日、旧国立競技場に降り立つと、悪天候の中、大勢のサポーターが目に飛び込んできた。「しっかり見ておくんだ。遠く離れた大分から集まってくれた。最後まで頑張ろう」と選手に語りかけた。

 試合は両チーム無得点のまま、相手ペースの苦しい展開が続いた。J1昇格を逃せば、再建計画は根底から覆る。「支援してくれた人にどうおわびすればいいのか」「大分に帰りたくない」。色んな思いが頭をよぎった。

 終了間際の後半41分、味方のシュートで先制すると、スタジアムに地鳴りのような歓声が響いた。アディショナルタイムは5分。「人生で一番長いと感じた5分だった」。祈りは通じ、そのまま勝利して4年ぶりのJ1復帰が決まった。ピッチに降りて同僚らと抱き合って喜んでいると、監督が「社長を胴上げしないでどうするんだ」と選手に声をかけてくれた。二度三度と宙に舞い、「青野! 青野!」とサポーターの大合唱が始まった。人目をはばからず大粒の涙を流した。

 試合後、大分に帰る飛行機で多くのサポーターが祝福してくれた。「最もかわいそうな県庁職員」。会社の再建を託された当初、そう揶揄されたが、この瞬間、「最も幸せな元県庁職員」に変わっていた。

 13年、大分トリニータは4年ぶりにJ1に復帰した。スポンサー料やリーグ分配金が増え、大分FCの最終利益は2億円を超えた。リーグ基金から借りた約6億円はついに完済し、約12億円に膨らんでいた債務超過額は約4億円に減った。

 経営再建に勢いがつき、債務超過の解消に向けて減資したうえで新たな出資者を募る計画を練った。しかし、損失を被る株主の同意は容易ではない。「自分が悪者になり、きれいな形で後任に引き継ぎたい」。株主への説明に奔走した。

 一部の株主は反対した。だが多くの株主は、地道に経営を立て直したことを評価し、チームを支援する1億円の募金に込められた県民の思いを理解してくれた。14年4月の株主総会。地元企業などが計約4億2000万円を出資し、5年続いた債務超過から脱することが決まった。

 翌日、長崎での試合前、2000人のサポーターがスタンド前で待ち構え、感謝の言葉と拍手を贈ってくれた。涙が頬を伝った。

 経営は軌道に乗った。しかしチーム成績は急降下する。J1復帰からわずか1年でJ2に落ち、2年後にはJ3への降格が決まった。15年12月、責任をとって監督と共にチームを去った。「県民にもっと恩返ししたかった」。悔いが残る辞任だった。

 団体勤務を経て、19年12月から大分県椎茸農業協同組合の組合長を務める。名産であるシイタケの消費拡大に向け、サポーターづくりに走り回っている。

 大分FCの再建に尽くした6年間、地域密着と草の根活動の大切さを知り、種をまいてきた。チームはコロナ禍に直面したが、クラウドファンディング(CF)で2億円超が集まり、再び地域から救われた。そんな県民に愛されるチームの姿に目を細める。「ちゃんと育ってくれよ」。我が子の成長を願うように、これからもスタジアムに足を運び、チームを見守っていこうと思う。

◆青野浩志(あおの・ひろし)=1956年、大分県臼杵市出身。長崎県立大経済学部卒、証券会社入社。退職後、82年大分県庁入庁。2010年大分FC社長、15年12月退任。大分市で妻、長女と3人暮らし。座右の銘は、ブルース・リーの言葉「楽な人生を願うな。困難な人生を耐え抜く強さを願え」。 



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