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今シーズンでの現役引退を発表した、FC今治の駒野友一(41)。元サッカー日本代表として、2010年W杯でベスト16に進出したメンバーのひとりだ。ベスト8進出をかけたパラグアイ戦、ここで駒野は痛恨のミスを犯す。「シュートがバーに当たった瞬間は、やってしまったという感じでした」――PKを外し、ベスト8への道は閉ざされた。指導者の道も視野にあるという駒野は、あのPKをどう乗り越えたのか。カタールW杯の開幕を前に、改めて本人に胸中を聞いた。(取材・文:栗原正夫/撮影:殿村誠士/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)ボールがバーを叩いた乾いた音は、いまも耳に残っています駒野は、12年前のあの日のことをいまでもよく覚えている。2010年6月29日、南アフリカW杯決勝トーナメント1回戦、日本代表は史上初のベスト8進出をかけてパラグアイと戦っていた。試合は延長戦を含め120分を終えても両者譲らず。決着の行方はPK戦へ委ねられ、日本の3人目のキッカーを務めたのが駒野だった。「シュートがバーに当たった瞬間は、やってしまったという感じでした。PKは苦手ではなかったし、選ばれれば蹴りたいと思っていたので特別な緊張はなかった。ただ、蹴る瞬間に相手GKの動きが一瞬目に入ったので、(手が届かないように)少しだけボールを浮かせようとしたら思ったより上がってしまった……。ボールがバーを叩いた乾いた音は、いまも耳に残っています」勝負が決したあと、普段はほとんど感情を表に出さない駒野が、敗戦の責任をすべて1人で背負い込むように顔を真っ赤にして涙を流した。その駒野を同学年のライバルでともに切磋琢磨してきた松井大輔や阿部勇樹が支えている姿は、南アフリカW杯を象徴するシーンとして記憶しているファンも多いはずだ。「松井とアベちゃんが寄り添ってくれて……。闘莉王(田中マルクス)もそうですが、やはり同級生の存在は大きかった。ただ、あのときは自分の失敗でチームが負けたこともあって、横に誰かがいたことはわかっていても顔を上げられなかった。記憶が飛んでいるわけではないのですが、自分の世界に入り込んでしまったというか、何も見えず、何も聞こえていなかった。だから、どんな感じだったかはあとで映像を見て知ったんです」一瞬、サッカーはもういいかなと思ったときもありました南アフリカ大会のパラグアイ戦は、日本代表がW杯ベスト8に最も近づいた瞬間だった。駒野にとっての試練はそこからだった。試合後のメディア対応も、この日は「すみません」と一言だけ残して通り過ぎるのがやっと。ホテルに戻っても食事は喉を通らず、チームメートから「気持ち切り替えて…」と声をかけられても、そう簡単にはいかなかった。「人と話す気になれずに部屋に閉じこもって、いろいろ考えました。自分が言える立場ではないですが、勝てばベスト8、優勝したスペインと戦えたわけですから……。帰りの飛行機ではパラグアイ戦のハイライト映像が流れていましたが、見ることはできなかった。空港に着いたときには、何か起きるかもしれないと恐怖すら感じていました」関西空港には、当時所属していたジュビロ磐田の広報担当者が心配して迎えに来てくれた。その車中で、クラブ宛てに送られてきたFAXを読み、少しだけ気持ちが落ち着いたと明かす。「300から400通くらいはあったと思います。自分としては、厳しい言葉が多いだろうと覚悟はしていました。ただ、一通ごと読んでみると8、9割は『感動しました』とか『胸を張って帰ってきてください』というポジティブなもので。少しは心が楽になったというか、なんとか帰宅することができました」ただ、W杯の直後は所属チームに脅迫状が届くなど、一時は警察に自宅付近を巡回してもらったこともあった。“戦犯”と大きなバッシングを受けた駒野にとって当時のことは辛い記憶として心に刻まれている。救ってくれたのは、無邪気な子どもの笑顔だった。「外に出るとやっぱり周りの人の視線が気になって……。ちょうどW杯のあとは2週間くらい休みがあったので妻が旅行を計画してくれて、当時3、4歳だった娘を連れて沖縄に行きました。子どもは状況がわかっていないので、かまってほしいと寄ってくるじゃないですか。そんな娘の笑顔を見ているうちに、自分も段々と笑えるようになったというか。そうやって時間を過ごすうちにまたサッカーがしたいなって気持ちになっていきました。一瞬、サッカーはもういいかなと思ったときもありました。ただ、結局はサッカーが好きで、体が求めていたからまたやりたいと思うようになったんでしょうね」2010年7月17日、ジュビロ磐田にとってW杯中断明け初戦となった清水エスパルスとの静岡ダービーでは、こんなことがあった。試合前のウォーミングアップ中、「きっとメンバー発表で、オレの名前が呼ばれたら大ブーイングだろうな」と覚悟を決めていた。しかし、エスパルスサポーターはまさかの拍手で駒野を迎えたのだ。「あの拍手はうれしかったですし、泣きそうになりました。叩かれるのは当然ですが、その一方で励ましてくれる人もいる。そういう人たちに、僕はサッカーでしか恩返しできないですから、もう1回頑張ろうって気持ちになれました」W杯になれば、またあのときの映像が流れるでしょうけどパラグアイ戦のPKキッカーを振り返ると、1番手の遠藤保仁、2番手の長谷部誠に続き、3番手が駒野で、4番手を本田圭佑が務めた。サイドバックという地味なポジションの駒野が、この順番で登場したことを「なぜ?」と思う人がいても不思議ではない。ただ、駒野はPKを蹴るべくして岡田武史監督に指名されたのだ。「キッカーだと言われたのは、PK戦が始まる前の円陣のとき。(決める)自信はありました」失敗を消化するまでに時間はかかった。ただ、いつからかチームメートや後輩からイジりのネタにされても笑い流せるようになった。「あのあとPK戦をやったのはシュビロ時代の11年にナビスコカップ王者として臨んだスルガ銀行チャンピオンシップのインデペンディエンテ戦(アルゼンチン)の1度だけ。そのときは自分も決めて、チームも勝ちました。ただ、僕がキッカーとしてPKスポットに向かうときにチームメートだけじゃなく会場全体がザワついたのはよく覚えています(笑)。練習でもカップ戦前にはPKの練習をすることはありましたし、イジってくる選手はいましたけど、そうされることで楽になった部分もあります。W杯になれば、またあのときの映像が流れるでしょうけど、いまはもう大丈夫です」あれから12年、駒野は41歳まで現役を続け、先ごろ今季限りでの引退を発表した。磐田を離れたあとは、FC東京、アビスパ福岡を経て、19年からはFC今治(J3)でプレーしてきたが、最後の所属となったクラブの会長が、南アフリカW杯時の指揮官・岡田武史だというのは不思議な縁があるのかもしれない。迷わず蹴って来い、と言いたい「何でしょうね。確かに失敗はしましたけど、それでサッカーが終わるわけではないし、よりサッカーのことを考えさせられるようになったというか。難しいですけど、もっと努力しなければと気づかされたと考えれば、悪いことばかりでもなかった。確実にメンタルは鍛えられました(笑)」将来的には指導者に興味があるというが、まもなく始まるカタールW杯に臨む日本代表についてはどう見ているのだろうか。日本代表はグループリーグでドイツ、コスタリカ、スペインと対戦するが、ドイツとスペインはともに優勝経験のある強豪だ。「相手がいくら強いといっても、ドイツにしても前回大会はグループリーグで敗退していますし、勝つチャンスはあります。南アフリカW杯のときも、大会前はなかなか調子が上がらず、ミーティングで闘莉王が『オレたちはヘタクソ。泥臭く戦うべき』と言った言葉が刺さり、自分たちの戦い方を再認識できましたから。(組分けだけを見て)期待していない人たちをギャフンと言わせてほしいですね」そして南アフリカ大会でもそうだったように、初戦に勝利することが決勝トーナメント進出の近道だとする。「やっぱり初戦が大事だし、ドイツが相手でも最低勝ち点1。第3戦のスペイン戦を考えると、第2戦のコスタリカ戦は確実に勝利したい」南アフリカW杯を戦った松井、阿部、闘莉王らとともに1981年生まれの駒野は、99年のワールドユースで準優勝を果たした小野伸二や稲本潤一ら一つ前の「黄金世代」と常に比較され、「谷間の世代」と言われてきた。そのなかでも、決して目立つ存在ではなかったが、振り返れば日本代表78キャップは同世代では断トツのナンバーワンである。届きそうで届かなかったW杯ベスト8の壁を破るには何が必要なのか。「南アのときも、守ることはできていたので、あとはチャンスを確実に仕留める決定力。それと、前回のロシアW杯のベルギー戦ではロスタイムのカウンターでやられましたが、あのときピッチに立っていた何人が危ないと思って戻っていたのか。最後は攻め上がってきたベルギーとの人数の差が結果に表れただけに攻守において大事な局面での判断が重要になると思います」カタールW杯でもグループリーグを突破すれば、PK戦になることも考えられる。もしそうなればキッカーにどんなアドバイスをかけるのだろうか。「迷わず蹴って来い、と言いたい。結果はどうなっても、後悔するようなキックだけはしてほしくないですね」今後指導者を目指す駒野にとってW杯でのPK失敗という痛みを知っていることは、1つのアドバンテージになるかもしれない。---駒野友一(こまの・ゆういち)1981年7月25日生まれ。和歌山県出身。サンフレッチェ広島ユースから2000年にトップチームへ昇格し、右サイドバックとして2年目からレギュラーに定着。その後は、ジュビロ磐田、FC東京、アビスパ福岡を経て、19年からFC今治へ。年代別の日本代表でも活躍し、01年ワールドユース(現U-20W杯)、04年アテネ五輪のほか、W杯にも06年ドイツ、10年南アフリカと2度出場。国際Aマッチ出場78試合1得点。
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