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 サッカー日本代表監督の人事は通常なら、4年に一度のワールドカップ(W杯)を一区切りに動きがあるものである。ところが、代表のパフォーマンスや、予期せぬアクシデントによって代表監督が交代することもある。日本サッカー界でも、指揮官の電撃交代を巡るドラマが歴史のページに幾度か刻まれてきた。


はしごを外された最有力候補

フランスW杯アジア最終予選の韓国戦、逆転負けで引き揚げる三浦知良らを出迎える加茂監督(1997年9月)

 1994年のW杯米国大会への出場を逃した後、日本代表監督は元ブラジル代表だったパウロ・ロベルト・ファルカン氏、さらに日産を強化した実績のある加茂周氏へと交代する。

 2002年大会の日本開催を目指していた日本協会としては、その直前の1998年フランス大会には何が何でも出場しなければならない。1995年11月末の契約満了で退任が既定路線と思われていた加茂氏の後任として、さらなる代表強化のために日本協会強化委員会(当時)は外国人監督起用の方針を固め、後任候補にネルシーニョ氏(ヴェルディ)、ハンス・オフト氏(ジュビロ)、アーセン・ベンゲル氏(グランパス)のJリーグの3人の外国人監督の名前が取りざたされていた。

 この中から第1候補となったのが、理論、分析力が際立ち、個性派ぞろいのヴェルディ選手を心服させるカリスマ性もあったネルシーニョ氏だった。交渉が進められ、同氏も代表監督就任に前向きな姿勢を見せていたのだが、95年11月、加茂氏への続投要請をすることが発表された。協会最高幹部が決定した仰天人事だった。

 加藤久・強化委員長が協会幹部に対する不信感をあらわにし、はしごを外された形のネルシーニョ氏は記者会見で報道陣に対し「協会は監督を選ぶ権利はあるが、ふざける権利はない」などと、かなり厳しい言葉も使って協会への不信感をあらわにしたうえで、「年俸百十万ドル、(W杯フランス大会アジア)予選突破ボーナスなど八十万ドル」などの金銭的条件、さらにはコーチの人事案などを公表してしまった。

 強化委員会を否定した協会幹部の「迷走人事」に大きな波紋が広がった。










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