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【六川亨のフットボール縦横無尽】

「苦しい時の神頼み」とは昔から言われてきた言葉だか、劣勢だったり、拮抗した試合だったり、そんな状況で頼りになるのが、いわゆる〈飛び道具〉だ。FKやCKからのゴールである。

 とりわけ直接FKは相手が壁を作るものの、キッカーはシュートを誰にも邪魔されずに狙えるだけにゴールの確率も高い。

 日本も過去には木村和司、名波浩、三浦淳寛、中田英寿、本田圭佑、遠藤保仁、中村俊輔と「FKの名手」といわれた選手が、その伝統を脈々と受け継いできた。

■相馬が森保ジャパン2人目のFKゲッター

 ところがアギーレとハリルホジッチの監督時代に直接FKからのゴールはゼロだ。

 西野ジャパンで臨んだロシアW杯でも、初戦のコロンビア戦で左CKから大迫勇也がヘッドで決勝点を決めたが、直接FKからのゴールはなかった。

 ようやく森保ジャパンになった2018年11月20日の親善試合・キルギス戦と2019年11月4日のカタールW杯2次予選・キルギス戦で原口元気が直接FKを決めている。

 そして2022年7月19日の東アジアE-1選手権の香港戦で相馬勇紀が開始2分、直接FKをゴール左上にねじ込んだ。

 実に3年ぶりとなる直接FKからのゴールとなったが、香港もキルギスも格下の対戦相手に過ぎない。実際、香港戦では大会最多となる6ゴールを決め、キルギス戦にしても2019年はアウェーで2-0、2018年はホームで4-0の勝利を収めている。 

 いずれも「苦しいとき」「困ったとき」のゴールではない。どうして日本は〈FKの名手〉という系譜が途絶えてしまったのだろうか。その原因を探る前に、過去の名手の名場面を振り返ってみよう。

■木村和司の韓国戦FKは伝説となった

 まずは〈伝説〉となっている木村和司の直接FKだ。ときは1985年10月26日、メキシコW杯予選。日本が初めてW杯に一番近づいた日でもある。

 曇天の国立競技場は、前宣伝を一切しなかったにもかかわらず(やりたくても手元不如意の日本サッカー協会はできなかった)超満員に膨れ上がった。

 それまでの国立競技場でサッカーの最多観客試合は、1977年にペレがニューヨーク・コスモスの一員として来日した「ペレ・サヨナラ・ゲーム・イン・ジャパン」の6万1692人だった。

 日韓戦は、それを上回る6万2000人が国立競技場のスタンドを埋め尽くした。日本がW杯のアジア最終予選まで勝ち上がったのは、この時が初めてだった。もちろんファンの期待も大きかった。

 試合は前半で2点のリードを許した。いずれもミス絡みの失点だった。しかし、前半43分に正面約30㍍から木村の放った右足インフロントのシュートは、壁を越えると大きくドロップしてゴール左上に突き刺さった。

 GKの懸命のセービングも及ばない。まさに「ここしかない」というコースに決まった素晴らしいシュートだった。

中田英寿が「ヨッシャー」の雄叫び

 木村の次に印象深いのが、1999年のコパ・アメリカの初戦・ペルー戦で決めた三浦淳寛の直接FKである。

 1-2で迎えた後半32分、左足から放たれたシュートは、大きく曲がりながら落ちてゴールに吸い込まれた。三浦淳のFKの特徴は、急激に落下することだ。このためGKもゴール枠を外したと思って見送ってしまうこともある。

 この2人に続くのが、2001年に日本で開催されたコンフェデレーションズカップの準決勝・オーストラリア戦での中田英寿の決勝点である。

 中田英は所属するセリエAのASローマがスクデット(優勝)争いをしていたため、この試合を最期に日本を離れなければならなかった。

 豪雨での試合となった横浜国際競技場。前半43分にゴール正面で得たFKに右足を強振すると、ボールは低い弾道のままスリッピーな芝で加速していってオーストラリア・ゴールに突き刺さった。シュートが決まった瞬間、中田英は振り返りながら両拳を握りしめて「ヨッシャー」と叫んだように見えた。

 この勝利により、日本は初の決勝戦進出を果たす。するとフィリップ・トルシエ監督は中田英の離脱に難色を示した。あらかじめ決まっていたことでトルシエ監督も納得していたのだが、決勝戦に勝ち上がった上に相手は母国フランスなので欲が出たのだろう。

 日本サッカー協会とモメたが、中田英は当初の予定通り、ローマに戻ってチームの18シーズぶり.3回目のスクデット獲得に貢献した。

 中田英と同時代のFKのスペシャリストと言えば、やはり稀代のレフティー中村俊輔だろう。(つづく)

(六川亨/サッカージャーナリスト) 










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