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フィリップ・トルシエの哲学連載 第1回日韓W杯の選手選考を語る

 2001年11月7日、埼玉スタジアムでイタリア代表と1-1で引き分けたあと、日本代表を率いるフィリップ・トルシエは「グループは出来上がった。ワールドカップが明日始まっても私たちは戦うことができる」と高らかに宣言した。その年の年末、「本大会までに選手の見直しがこれからもあるのでは?」という私の質問にも、「それはない。チームは固まった」と彼はハッキリと答えた。

 だが実際には、何人かの選手の入れ替えがあった。

 誰が23人の最終メンバーに残り、誰が外れるかは、世間でも大きな関心を集めていた。とりわけ、なかなか出場の機会が与えられなかった中村俊輔に関しては、議論がヒートアップしていた。中田英寿、小野伸二と並ぶ日本屈指のゲームメーカーである中村を推す声は、メディアにもサポーターにも多かった。

 はたして、最終的にトルシエはどんな基準とプロセスによって、23人のメンバーを選んだのだろうか――。

 代表チームはオールスターではなく、ひとつの有機体である。エースを11人ピッチ上に配しても、うまく機能するわけではない。ならば、チームとして最高のパフォーマンスを発揮するには、どのような有機的な構成が最善であるのか。

「選手を選ぶ基準は3つあった」とトルシエは言う。

「最初の基準は、試合をスタートする選手たちだ。最大限で15人の選手たちであり、松田直樹や森岡隆三、宮本恒靖、中田浩二らがそこに入る。フラット3を実践していくためには、彼ら4人は不可欠だった。

 中盤でまず考えたのは、稲本潤一と戸田和幸のふたり。そして、福西崇史もスタメンで起用できる。それだけで、すでに3人。2つのポジションに(スターター候補が)3人もいれば十分だろう。

 左アウトサイドは攻撃的なオプションなら小野伸二、守備的なオプションなら服部年宏だった。右サイドは守備的なら明神智和、攻撃的なら市川大祐だった。最初のリストで選んだのは、そうした15人の選手たちだった。試合をスタートさせる選手たちだ」

 2番目の基準は、16~20番目の選手たち――すなわち、ベンチに座る選手であり、試合の途中で何かをもたらすことができる選手たちだった。「試合を終わらせる選手」と言ってもいい。

 トルシエは、選手の序列が明確に感じられる「スタメン」と「サブ」という言い方を嫌った。同じグループのなかでは、「試合を始める選手」「試合を終わらせる選手」という言い方を好んだ。

「森島寛晃や西澤明訓、三都主アレサンドロ、小笠原満男らは試合を終えるための選手であり、交代要員となることを認めた選手たちだった」

 そして、第3の基準。この基準で選ばれた選手たちこそが、「チーム作りのカギだった」とトルシエは語っている。

「リストの最後にくるのが、プレーの機会がほぼない選手だった。彼らがグループのなかで最も重要だったのは、出場機会はなくとも、グループを維持していく役割が課せられていたからだ。

(チームの)雰囲気が悪くならないように、引き締めて緊張感を維持する。同時に(チーム内を)適度にリラックスもさせる。

 だからたとえば、中澤佑二ではなく、秋田豊を選んだ。もちろん中澤は、秋田に代わってグループに入る力を持っていた。しかし中澤はまだ若く、パーソナリティの面で彼がグループにもたらすものは少なかった。

 中山雅史を選んだのも同じ理由だ。彼はチームの雰囲気を盛り上げ、選手たちを安心させることができる貴重な存在だった」

 彼が23人のリストを固めたのは、オスロでノルウェーに0-3と敗れた試合(2002年5月14日)のあとだった。

 W杯イヤーに入ってからの日本は、ウクライナ(ホーム)とポーランド(アウェー)を破り、コスタリカ(ホーム)とは引き分け。キリンカップではスロバキアに勝って、ホンジュラスとは引き分けた。

 安定はしていたものの、前年のコンフェデレーションズ杯(準優勝)やイタリア戦のような、見るものにカタルシスを与えるパフォーマンスを発揮したわけではなかった。

 そうして、5月に行なわれたヨーロッパ遠征では、クラブ創立100周年を祝うレアル・マドリードに招待された記念試合で0-1と敗れ、直後のノルウェー戦は0-3と完敗。釈然としないまま、テストマッチのシリーズを終えようとしていた。

 トルシエは当初、2001年末のイタリア戦のグループのなかから選べると考えていた。

「(イタリア戦を終えて)23人はすでに、私とともにあると確信していた。実際に本大会に連れていくのは24~25人になるかもしれないが、グループは出来上がっているという思いは強かった。23人はすでにここにいる、と」

 だが、ノルウェー戦の直後に彼が感じたのは、グループに何かが欠けているということだった。

「リーダーがいなかった」とトルシエは言う。

「私が考えるリーダーとは、日本社会のなかで敬意を払われる人のことだ。日本では目上の人間が尊重される。経験を重ねた年長者に日本人は敬意を抱く。だから、リストを決める最後の瞬間に......つまりノルウェー戦の直後に、オスロでスタッフに招集をかけた。

 そこで私は、彼らに(先に触れた)秋田と中山についてどう思うか尋ねた。

 中山は、久保竜彦の代わりに選びたいと考えていた。久保はグループに入っており、W杯に行ける力を持っていたが、パーソナリティやチームの雰囲気作り、チームに与える安心感などを考慮して、私は中山を選んだ。

 そして、中澤に代えて秋田を選出した。グループをいい状態に保ちたかったし、そのために"強固な守護者"が必要だった。グループの雰囲気を維持し、全体が守られるためにふたりを選んだ」

 秋田も中山も、トルシエの代表での経験はあったものの、この時はグループから外れていた。とはいえ、トルシエは「秋田と中山はいつでもチームに呼べる。最後の瞬間でも可能だ。彼らふたりの存在が、グループに保証を与えている」と、当時も私に何度となく語っていた。

「ふたりのことはノルウェー戦のあとに決めて、ふたりとも同意したが、どちらも欧州遠征には帯同していなかったし、何の準備もしていなかった。それでも彼らに決めたのは、ノルウェーに負けて、グループが脆く不安定だと感じたからだ。"守護者"は絶対に必要だった」

 秋田と中山こそは、日本代表というジグソーパズルを完成させる最後のピースであり、グループの要でもあった。

 トルシエが彼らを選んだ真意を、私たちは大会が始まってから理解する。試合に出場する可能性がほとんどないふたりのベテランが、練習では常に選手たちの先頭に立っていた。「秋田さんや中山さんがあれだけ頑張っているのだから」という思いは、若い選手たちを奮い立たせる効果があった。チームに芯が通ったのだった。

「それは感覚的な決断だった」とトルシエは言う。

「代表監督は、いろいろなことを感覚として感じ、決断する。答えはどこにも書かれていないし、誰も助けてはくれない。感じられるのは私だけで、私は自分の感覚に従って判断する。

それは直観であり、その場の雰囲気から直接的に感じられることだ。パワーポイントで明示できるものでもないし、本に書かれてもいない。何かモデルがあるわけでもない。モデルがあるとすれば、それは私自身だ。

 私が決断をして、それをスタッフと分かち合った。スタッフも私の決断に異存はなかった。仮にあったとしても、私は自分の意見を通していただろう」

 日本中の世論を二分した"中村を選ぶか否か"については、逆に「最も簡単な決断だった」とトルシエは語る。

「彼はケガをしていてプレーができなかったからだ。私が行なったさまざまな決断のなかでも最も容易だった。

 彼には戦う準備が整っていなかった。(欧州の)遠征にも帯同したが、練習に加われなかった。本来なら、帯同させる状態ではなく、彼を連れていくことは私にとっても賭けだった。そうしたのは、彼にもう一度チャンスを与えたかったからだ。

 だが、ひと月の間(中村は)チームと行動をともにしたが、全体練習に加わることは一度としてなかった。別メニューの調整ばかりで、レアル・マドリード戦にも、ノルウェー戦にも出場しなかった。プレーができる状態ではなかった。

 彼が問題を克服しようとしているようには見えなかったし、意志の強さも感じられなかった。だから、三都主と中村のどちらを選ぶかという時、私に一切の躊躇(ためら)いなかった。

 繰り返すが、決断は簡単だった。中村はプレーできる状態ではなかった。そこに議論の余地はまったくなかった。三都主は100%の状態であったのに、中村は30%でしかなかった」

ではもし、中村が負傷していなくてトップコンディションにあったら......。その時は状況がまったく異なっていたとトルシエは言う。

「三都主や服部、小笠原の代わりに、中村を選んだかもしれない。おそらく三都主か、小笠原が外れていただろう。中村が100%の状態だったら、彼は間違いなくW杯のグループに入っていたが、実際はそうではなかった」

 こうして、W杯を戦う23人が決まった。その発表の日、会見場にトルシエの姿はなかった。W杯初戦で戦うベルギー代表を視察するため、ノルウェー戦のあとも彼はヨーロッパに残っていた。代わって、選手のリストを読みあげたのは、日本サッカー協会強化推進本部副本部長であった木之本興三であった。

(文中敬称略)

フィリップ・トルシエ1955年3月21日生まれ。フランス出身。28歳で指導者に転身。フランス下部リーグのクラブなどで監督を務めたあと、アフリカ各国の代表チームで手腕を発揮。1998年フランスW杯では南アフリカ代表の監督を務める。その後、日本代表監督に就任。年代別代表チームも指揮して、U-20代表では1999年ワールドユース準優勝へ、U-23代表では2000年シドニー五輪ベスト8へと導く。その後、2002年日韓W杯では日本にW杯初勝利、初の決勝トーナメント進出という快挙をもたらした。

田村修一●取材・文 text by Tamura Shuichi 










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