スクリーンショット 2022-06-30 16.18.56

スポンサード リンク




日韓W杯20周年×スポルティーバ20周年企画「日本サッカーの過去・現在、そして未来」ブラジル優勝秘話

 2002日韓W杯。一発勝負の決勝トーナメントが始まった。難しい試合が続いたが、日本がブラジルに力をくれた。特に神戸で行なわれたラウンド16のベルギー戦は、決勝よりハードな試合だった。しかし、スタンドの90%の観客はブラジルを応援してくれ、ルイス・フェリペ・スコラーリ監督は「ここはホームだ」と感激していた。

 もうひとつ、この試合でブラジルに力を与えてくれたものがあった。ハーフタイム、前半を0-0のまま終えたブラジルは、どこか苛立っていた。チーム付きの私はロッカールームの前にひとりで立っていたが、突然、後ろから声をかけられた。

「中に入れてもらってもいいかな?」

 振り返ると、そこにいたのはサッカーの王様ペレだった。彼はテレビ局のコメンテーターとして日本に来ていた。もちろん、部外者を中に入れることは禁じられている。ペレもそれは知っていたはずだ。だが、通路に私以外のFIFAの人間の姿はない。私は彼に背中を向けて言った。

「私は何も見ていません」

 彼は3分間、ロッカールームの中にいて、その後、出てきた。帰る際、彼は私のスキンヘッドにキスをしてこう言った。

「今日は勝つよ」

 その言葉どおり、後半、リバウドのゴラッソでブラジルは先制し、その後はロナウドもゴールを決めて2-0で勝利した。

 次の試合は静岡で行なわれるため、我々は宿泊地の静岡に戻った。ブラジルへの期待が高まってきたのか、毎日、練習には2000人近くの記者やサポーターが詰めかけた。私はそれにほぼひとりで対応せねばならず、目が回るほどの忙しさだった。

 準々決勝のイングランド戦の前、リバウドは精神的に落ち着きを失っていた。それまでの全試合でゴールを決めていたにもかかわらず、ブラジルのマスコミは相変わらず彼を叩いていて、彼の不安定さは周囲の人間にも感じられるほどだった。ロッカールームを出る5分前、私の目の前で、スコラーリ監督はリバウドのお腹に手を当て、こう言った。

ロナウジーニョのゴールの真相

「リバ、ここにたまっている怒りと悲しみを彼ら(マスコミ)に向かって吐き出しなさい。君は世界一だ。ブラジルは君にかかっている」

 この試合、ブラジルはイングランドに先制を許したが、前半のアディショナルタイムにまさにそのリバウドがゴールを決め、ブラジルは同点でハーフタイムに入ることができた。後半に入ってロナウジーニョが決めた見事なゴールは、クロスだったのか、シュートだったのか、長く論議されていたが、私はロナウジーニョ本人から真相を聞いている。

「あれはシュートだよ、GKの(デビッド・)シーマンを驚かしてやりたかったんだ」

 試合の後、私は笛を吹いたメキシコ人審判と食事をする機会があったが、彼もこのゴールを絶賛していた。

「ゴールにボールが入った時、私は自分の目を疑ったよ。まさかあんな曲線を描くとは。人生でこれほど美しいシュートを見たことはなかった」

 こうしてブラジルは準決勝へと駒を進めた。この頃になると、ブラジル本国もこのセレソンを認めるようになり、試合は全国の映画館でも中継された。ただ困ったことに、キックオフの時間はブラジルの朝の3時だったり8時だったりしたため、試合のある日は誰も仕事には行かなかった。

 準決勝のトルコ戦の前、ロナウドがとんでもない髪形になったのを皆さんは覚えているだろうか。ブラジルでは有名な漫画の主人公「カスカオ(大きなゴミの意味)」のものと似ていたため、このヘアスタイルは「カスカオ」と呼ばれた。チームのみんなが大反対したのだが、ロナウドは強行した。

 しかし、それは決してただの悪ふざけではなく、大きな意味があった。ロナウドはそれまで好調だったが、彼が膝に爆弾を抱えているのを誰も忘れてはいなかった。テレビや新聞は、ロナウドといえばケガの話ばかりをした。

「僕は人々の注意をケガから引き離したかった。だからあんなヘンな髪型にしたんだよ。実際、その後はみんな僕の髪型のことばかりを話題にするようになって、おかげで僕はリラックスしてプレーができるようになったんだ」

最強ではないことを知っていた

 2018年、ロナウドと当時の思い出話をした時に、彼はその秘密を教えてくれた。ただ、困ったことにW杯で優勝した後、ブラジルの子供たちはこぞってこのロナウドの奇妙な髪型を真似しだした。

「その時はさすがに全国のお母さんに謝りたい気持ちだったよ」

 ロナウドは笑っていた。

 決勝トーナメントになると次の試合までは少し間がある。みんなで静岡の有名な温泉に行ったこともあった。しかし、日本の風呂はあまりにも熱くて、誰も膝までしか入れない。後からやってきたスコラーリは「みんな何をビビっている」と言ってお湯につかったが、5秒しかもたずに飛び出した。選手たちが笑うと、スコラーリは罰として全員膝まで湯船に入ることを命じた。

 しばらくして、ジュニーニョ・パウリスタが抗議する。

「これ以上浸かっていたら、お湯に溶けてみんな小さくなっちゃいます。次の試合ではミニセレソンになってしまいますよ」

 スコラーリは笑って許してくれた。チームは本当に家族のような雰囲気だった。

準決勝のトルコ戦はあまりいい出来ではなかったが、それでもブラジルは決勝に勝ち進んだ。

 決勝の相手はドイツ。GKのオリバー・カーンは、心理的プレッシャーを与えるためなのか、試合前から「ロナウドは俺を恐れている」などと、ペラペラいろいろなことをしゃべっていた。

 カーンはこの大会のMVPとなっているが、実は、これは決勝前に決められたものだったのをご存じだろうか。彼がそれに値していたかどうかはここでは論じない。とにかくこの大会以降、FIFAは大会MVPの選出時期を決勝前ではなく、決勝後にした。

 スコラーリは習慣として、試合前にしていることがあった。それは、その時の状況にあわせた「孫子の兵法」の一句を選手ひとりひとりの部屋に届けることだった。決勝前に届けられたページにはこう書かれていた。

「本物の勝者とは自分の弱さを知り、それを強さに変える」

 2002年のブラジルは決して最強ではなかった。しかし、彼らはそれを知っていた。そしてそれを武器に変えて、世界の頂点に立った。スコラーリより優秀な監督は数多くいるだろう。しかし、選手をやる気にさせることに関しては、彼の右に出る者はいないと私は思った。

2002年6月30日、横浜。決勝戦のタイムアップの笛が鳴った時、キャプテンのカフーは泣いていた。それから彼は、私からマジックペンを奪うと、ユニホームに何かを書きだした。そこには「100%ジャルディーニ・イレーネ」と書いてあった。ジャルディーニ・イレーネはサンパウロにあるファベイラ(スラム)の名前であり、カフーの生まれ育った場所だった。

 彼は世界を制した瞬間も、自分の出自のことを忘れなかった。それを見たデニウソンもユニホームに「100%ディアデマ」と書き、ジュニオールも「100%サンアントニオ」と書いた。いずれも貧しい地区である。自分のルーツを忘れない。これもスコラーリの教えだった。

 カフーに聞くと、彼は今でもそのユニホームは大事に家にとってあるという。

「サッカーは足でプレーするものだが、心がなくては勝てない」

 かつてのブラジル代表のキャプテン、ソクラテスはそう言った。2002年のセレソンを見て、私はまさにそのとおりだと実感した。

リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon 










スポンサード リンク

ブログランキング にほんブログ村 サッカーブログへ