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サッカー日本代表のイビチャ・オシム元監督が死去したと、来日前まで指揮を執ったオーストリア1部のシュトゥルム・グラーツが1日に発表した。80歳だった。
2003年にジェフ市原(現ジェフ千葉)の監督に就任したオシム氏は、低迷していたチームをJ1リーグ戦の優勝争いに加わるまでに躍進させ、2005年のヤマザキナビスコカップでクラブ史上初のタイトルを獲得。卓越した手腕を見込まれて、2006年7月にはドイツワールドカップで惨敗を喫していた日本代表監督に就任した。
市原時代からのテーマ「考えて走るサッカー」を掲げて、代表チームを再建していた最中の2007年11月に急性脳梗塞で倒れて監督を退任。リハビリをへて療養生活を送っていたが、オーストリア・グラーツの自宅で帰らぬ人となった。いま現在にも多くの教訓を伝える、ウィットとサッカー愛にあふれた生前の「オシム語録」を追った。
「サッカーを遙かに超えた影響力を持っていた」
81歳の誕生日を直前に控えていたオーストリアから、突然の訃報が届いた。
グラーツ市内の自宅で療養生活を送っていたオシム氏の死去。1994年から8シーズンにわたって同氏が指揮を執ったシュトゥルム・グラーツは公式ホームページを更新し、クリスティアン・ジョーク会長が哀悼の意を表している。
「彼は素晴らしいコーチだっただけでなく、私が知り合った最も偉大な人物の一人でした。一緒に過ごした多くの時間を、私たちは決して忘れません。彼の言葉は永遠に私たちのなかに響き渡るでしょう」
ジョーク会長が言及したように、生前のオシム氏が残した言葉の数々は、人生と人間に対する深く、鋭い哲学的な洞察とウィットに、何よりもサッカーへの愛情に富んでいたがゆえに、市原監督時代から「オシム語録」として日本でも耳目を集めた。
例えば市原を率いて間もない2003年4月。チームに故障者が相次いだ状況を問われたときには、ちょっぴり皮肉も込められたこんな言葉を残している。
「ライオンに追われたウサギが逃げ出すときに肉離れをしますか? 私は現役のときに一度もしたことはない。要は準備が足らないのです」
肉体面と精神面の二面的なアプローチで低迷していた市原を改革していたなかで、肉体面で最低限のテーマにすえた「走る」が欠けていた選手たちへ浴びせられた強烈な檄。奮起した市原は時間の経過とともに「考えて走るサッカー」を実践し、最終的には3位だったものの、ファーストステージで優勝争いを演じるまでに変貌を遂げた。
ジーコジャパンがドイツワールドカップを戦った2006年6月には、中田英寿や中村俊輔、小野伸二ら攻撃的な選手が多かった中盤の構成を問われてこう返している。
「守備的な選手はいるのか? 水を運ぶ選手も必要だ」
中盤には水を運べる、すなわち献身的で、黒子に徹するボランチがもっと必要だと指摘されたジーコジャパンは惨敗。直後に代表監督を託されたオシム氏は、水を運べるうってつけの存在として鈴木啓太(浦和レッズ)を初陣から重用している。
代表通算28試合に出場し、デビュー戦を含め、そのうち20試合をオシムジャパンで経験した鈴木氏は、自身のツイッター(@keita13suzuki)で感謝の思いを捧げた。
「私にとって、サッカーというものが何かを教えていただき、その後の人生にも大きな影響を与えてくださった方です」多様性を意味するポリバレントを、サッカー界に広めたのもオシム氏だった。必要に応じて複数のポジションでプレーできる能力を、オシム氏は指揮を執って5試合目、2006年10月のガーナ代表との国際親善試合の直前にこう表現した。「ポリバレントとは化学の言葉だ。化学的なサッカーというのも悪くはないだろう」オシムジャパンでセンターバック、ボランチ、サイドバックを担い、ポリバレントの象徴的な存在になったのは阿部勇樹だった。21歳だった2003年にオシム氏からキャプテンを任され、精神的にも大きな成長を遂げた市原時代を懐かしみながら、阿部氏もまた自身のツイッター(@daikichi22abe)で哀悼の意を捧げている。「まだまだこどもだった、自分を鍛えてくれた恩師!今の自分があるのは、オシム監督の指導のおかげです!またお会いにいって、サッカーの話をいっぱいしたかった」旧ユーゴスラビア(ボスニア・ヘルツェゴビナ)のサラエボで生まれたオシム氏は、現役時代は大型フォワードとして活躍。1964年の東京五輪にはユーゴスラビア代表として来日し、日本代表戦で2ゴールをあげた。引退後は指導者の道を歩み、1990年のイタリアワールドカップではユーゴスラビアをベスト8へ導いた。しかし、直後からオシム氏の人生は政治と戦争に翻弄された。旧ユーゴスラビアからの独立を巡り、イスラム系、セルビア系、クロアチア系の3民族が激しく対立する内戦が勃発。デートン和平合意が調印された1995年12月までの約3年半で犠牲者は数十万人にのぼったとされ、オシム氏自身も戦禍のサラエボに残した、夫人のアシマさんや長女と離ればなれの生活を2年半も余儀なくされた。忌み嫌う記憶が蘇ってくるからか。戦争を連想させる言葉をオシム氏は嫌った。敵地でのインド代表戦を控えた、2006年10月の記者会見だった。「フットボールは美しいゲームだ。だからストラテジー(戦略)というより、タクティクス(戦術)という言葉を使うべきだろう。何よりもストラテジーは戦争用語であり、フットボールにはふさわしくない」敗戦国である日本に対して、特別な思いも抱いていた。東京五輪で初来日した1964年に、近代的な街並みを見せる東京に心を震わせたオシム氏は親日家になった。パルチザン・ベオグラードを率いて2度目の来日を果たした1991年7月には、国際親善試合で対戦したプロ化直前の日本代表の進歩に驚かされた。日本サッカー界の変化を目の当たりした一人として、代表監督の初陣となった2006年8月のトリニダード・トバゴ代表戦前にこんな言葉を残している。「敗北から最も学んでいるのは日本だと、世界の人たちは考えている。これは経済の話だが、サッカーについても日本は敗北から学ぶべきことはたくさんある」大きな期待を背負いながら一敗地にまみれた、ジーコ監督に率いられたドイツワールドカップを「最良の教師」と位置づけたオシム氏はさらにこう続けた。「(第二次世界大戦の)敗北を乗り越えて、日本は先進国の仲間入りを果たした。サッカーでもなぜそれができないのか」市原時代から掲げた「考えて走るサッカー」だけではない。オシム語録で有名になった「水を運ぶ人」も「ポリバレント」も、いまでは日本サッカー界の普遍的なものになっている。一人の人間として平和を強く望んだ思いは、ロシアによるウクライナ侵攻のニュースが連日のように届くいまでは、その尊さが伝わってくる。自身が目指した南アフリカワールドカップへの挑戦は、突然襲われた病魔によって道半ばで閉ざされた。バトンを継いだ岡田武史監督のもとで果たしたベスト16が、2002年の日韓共催大会、2018年のロシア大会と並ぶ日本代表の最高位となっている。強面で時に禅問答のようなやり取りをメディアとの間で交わしたオシム氏だが、ポロッとジョークをはさむことも忘れなかった。例えば就任間もないころに、代表チームにオートマティズムがないのでは、と問われた直後にはこう返している。「結婚して40年になるが、まだ家内との間にオートマティズムがない。数回練習しただけの選手たちの間に、どうしてオートマティズムが生まれるだろうか」そのアシマさんら最愛の家族に看取られ、オシム氏は波乱万丈の生涯を閉じた。今後は成長の余地があると信じて疑わなかった日本代表がカタールの地で掲げるベスト8への挑戦を、厳しくも温かいエールを送りながら空の上から見守ってくれるはずだ。(文責・藤江直人/スポーツライター)
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これ凄くいい言葉だけど、残念ながら上のお偉いさんたちは学んでないし逆戻りしちゃったよ