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2001年6月17日。今からちょうど20年前......日本サッカーの歴史を大きく変えた、まさしくエポックメイキングな出来事があった。

 それは、2000-2001シーズンのイタリア・セリエA最終節。ローマの本拠地スタディオ・オリンピコで行なわれたパルマとの一戦で、ローマが18年ぶりのスクデット獲得に成功した日のことである。

 これまでローマがリーグタイトルを手にしたのは、計3回。初優勝は戦前の1941-1942シーズンまでさかのぼり、2度目は"第8代ローマ王"の異名をとったブラジル代表MFファルカンを擁した1982-1983シーズンのこと。

 そして、3度目のタイトルを獲得した2000-2001シーズンのチームには、ひとりの日本人ミッドフィルダーがいた。そう、当時24歳の中田英寿である。

 今でこそイングランドやスペインの後塵を拝するイタリアではあるが、当時のセリエAは自他ともに認める世界最高峰のリーグ。とりわけ栄華を極めた1990年代以降は、長きにわたって世界中のフットボールプレーヤーにとって最終目標の地だった。

 そんな憧れのリーグの頂点に日本人が立ったという事実は、とてつもなく大きな意味を持つ。少なくとも、その後の日本サッカー界に与えた影響という点では、2012-2013シーズンにマンチェスター・ユナイテッドの一員としてプレミアリーグの頂点に輝いた香川真司や、2015-2016シーズンにレスター・シティのプレミア初優勝に貢献した岡崎慎司、2019-2020シーズンに30年ぶりのリーグ優勝に輝いたリバプールの南野拓実を上回るインパクトがあった。

 たしかに中田がイタリアで活躍した以前にも、ドイツのブンデスリーガではケルンの奥寺康彦(現・横浜FC取締役会長)がリーグ優勝と国内カップ優勝の二冠を手にしたこともあった(1977-1978)。しかし、それは日本サッカーがプロ化する以前の話であり、テレビ中継を含めたサッカーのグローバル化が始まる前の時代のこと。日本でその事実を共有していた人は、極めて限られていた。

中田が欧州に渡った時代は、1970年代と比較して大きく様変わりした。

 1993年のJリーグ開幕を機に日本サッカーはプロ化が浸透し、カズ(三浦知良)が1993-1994シーズンにセリエAの古豪ジェノアに移籍したことによって、多くの日本人が海外サッカーに目を向けていた時代である。ローマの中田がリーグ優勝を遂げたパルマ戦は、日本の雑誌や新聞、ニュース番組でも大きく取り上げられた。

 もっとも、ペルージャから強豪ローマに移籍して2年目を迎えていた中田にとって、そのシーズンは決して順風満帆だったわけではなかった。

 当時ローマを率いていたファビオ・カペッロ監督は、スクデット獲得に本腰を入れるべく開幕前に大幅な戦力補強を断行。前年から抱えていた選手層の問題を解消し、優勝を狙えるだけの豪華なメンバーを揃えることに成功していた。

 当時のレギュラーは、GKフランチェスコ・アントニオーリ以下、3-4-1-2の最終ラインにジョナサン・ゼビナ(フランス代表)、ワルテル・サムエル(アルゼンチン代表)、ザーゴ(ブラジル代表)、アウダイール(ブラジル代表)。両ウイングバックはカフー(ブラジル代表)とヴァンサン・カンデラ(フランス代表)、中盤センターにはイタリア代表コンビのダミアーノ・トンマージとクリスティアーノ・ザネッティがいた。

 2トップには、ガブリエル・バティストゥータ(アルゼンチン代表)、マルコ・デルヴェッキオ(イタリア代表)、もしくはヴィンチェンツォ・モンテッラ(イタリア代表)。そしてトップ下には、中田のライバルとして立ちはだかったローマの「プリンチペ(王子)」ことフランチェスコ・トッティが君臨。

 これだけの猛者が集うなか、中田の出場機会は限られ、外国人枠の問題によってメンバー外を強いられた試合も少なくなかった。それでも、カペッロ監督が「ファンタジーならトッティ、確実性なら中田」と評したように、中田がチーム内で重要戦力として認められていたことも確かだった。

そして、スクデットの行方を大きく左右した第29節の2位ユベントス戦。直前に外国人枠が撤廃されたことで、それまでスタンド観戦を強いられることが多かった中田がメンバー入りを果たすと、2点のビハインドを背負うなか、負傷で精彩を欠いていたトッティに代わり、後半途中に出番が回ってきた。

 すると、中田は自ら奪ったボールをそのままドリブルで運び、豪快なミドルシュートを突き刺して反撃の狼煙。さらに、後半アディショナルタイムには再びミドルシュートを放つとこれを相手GKが弾き、こぼれたボールをモンテッラがゴール。華々しい活躍で劇的な同点劇を演出した中田は、一躍ヒーローとしてスポットライトを浴びたのだった。

 世界最高峰のリーグで、しかもローマが18年ぶりのスクデットをほぼ手中にしたその試合のニュースは、世界中で視聴されるCNNやBBCといったニュース専門チャンネルでも大きく取り上げられた。

 おそらく、それをきっかけに「セリエAで活躍する日本人がいる」ことを認知した外国人は多かったはず。ある意味それは、日本人サッカー選手の価値を一気に高めた、ワールドワイドな宣伝になったと言えるだろう。

 実は、ローマがスクデット獲得を決めたパルマ戦の前に、中田はクラブと日本代表の板挟みに遭っていた。

 当時の日本サッカー界は、翌年のワールドカップ地元開催を控えてサッカー人気が過熱していた時期。まだシーズンを戦っていた中田も、W杯のプレトーナメントとして日本と韓国で開催されたコンフェデレーションズカップに臨むトルシエジャパンに招集された。

 当初、カペッロ監督は招集に難色を示していたが、「グループリーグのみ」という条件付きで離脱を承認。そして日本代表のグループリーグ突破に貢献した中田は、フィリップ・トルシエ監督のリクエストで準決勝のオーストラリア戦に出場すると、大雨が降りしきるなか、自ら直接フリーキックを決めてチームを決勝に導いたのである。

試合終了後、トルシエ監督は再び中田に決勝戦出場を求めたが、結局、中田はスクデット獲得を目前にしたローマに帰還。その後、トルシエ監督が中田の選択に不満を示すなど、当時はメディアやファンの間でも激しい論争になった。

 それでも、ローマがスクデットを決めた試合のピッチに、中田が立っていた意味は大きい。日本人サッカー選手の可能性を世界に知らしめたという意味では、まだ公式大会として世界的に認知されていなかったコンフェデレーションズカップ決勝でプレーするよりも、はるかに重要だった。

◆岡崎慎司が欧州挑戦を継続する理由。辞めどきと指導者への興味も語る>>

 その年の夏、それを証明するかのように多くの日本人が海外に旅立った。

 小野伸二がフェイエノールト(オランダ)、稲本潤一がアーセナル(イングランド)、欧州挑戦2度目の西澤明訓はボルトン(イングランド)、高原直泰はアルゼンチンの名門ボカ・ジュニオルスに移籍。10月には川口能活がGKとして初の欧州移籍を果たし、ポーツマス(イグランド2部)の一員となった。

 日本サッカーの歴史を動かしたのは、まさに中田のスクデット獲得にあったと言っていいだろう。

中山淳●取材・文 text by Nakayama Atsushi



2021/06/18(金)
当時のセリエAのステータスを考えると、今であればプレミアリーグのビッグ6あたりに所属し、主力としてリーグ優勝に貢献したようなもんだからな。
中田を超えた日本人選手がまだ現れていないという意見が多いのも頷ける。

2021/06/18(金)
あれからASローマはスクデットを獲得していないから、今でもNAKATAはローマで有名だ。

伝説のユベントスは今でも語り継がれ、前半にゴールを挙げたデルピエロとジダンも中田をずっと称賛し続けている。
中田のゴール後の口の動きが「よっしゃー!」と言っているように見えた。
その後、日本人選手が多数欧州で活躍するようになったのは嬉しい。

2021/06/18(金)
当時ペルージャローマの試合はフジテレビで深夜見れました。ユベントス戦での2得点に絡む大活躍したときは夜中なのに大声を張り上げてしまい、且つ感動して涙を流したことを覚えています。

2021/06/18(金) 
当時のセリエAは本当に世界トップの選手が集まっていた世界最高のリーグだった。
そこで一流選手と対等に張り合っていた中田を見て、本当に感動をしたのを覚えている。
日本サッカー史上最高選手は、私の中では誰がなんと言おうと中田がぶっちぎり!

2021/06/18(金)
中田がイタリアに渡り、ペルージャでのデビューは衝撃的でした。日本人がデビュー戦でしかもユベントス相手に2ゴールはとても驚きました。いつも中田の活躍にワクワクしていたのを思い出します。現在の欧州で日本人が活躍する足掛かり的な存在だと思う。

2021/06/18(金)
雨の横浜で脚の下のフリーキック一閃、決勝出ず帰国してスクデットもトルシエと確執と騒がれたあの頃から早20年か。時の流れが早すぎて怖い。日韓ワールドカップは本当にワクワクしたなぁ。オリンピックも本来ならあれぐらいの熱狂だったのかな。

2021/06/18(金)
セリエAデビュー戦の対ユベントスのゲームで2ゴール。それがすべての始まりだったような気がします。あれを上回るインパクトはなかなか無いなあ。残念ながら負けゲームだったけど、なんかチームを一人で背負っているようで恰好良かったなあ。

2021/06/18(金)
トッティよりも良いっていう意見がイタリアで出てたってのがすごい。
ローマの象徴だったからなぁ。
あの時のローマはサッカーが面白かった。
バティ、モンテッラ、カフー、トンマージ、デルベッキオみんなすごかったなぁ。
カフーの突破とクロスなんかはほんとにえげつなかったし、モンテッラが後半から出てきたときの頼もしさったらなかった。

2021/06/18(金)
徐々に欧州リーグの偉大さが、伝わるようになってはいたが、当時はやはりクラブより代表が主と見る傾向。
一般人は代表を辞退して、クラブに戻る意味が不明であった。
こういった感覚(欧州リーグの優勝の偉大さ)を、勉強できた出来事でもあった。

2021/06/18(金)
外国人枠の問題、トッティとの共存問題、ちょっと色々あったけど当時の監督が
本来ならボランチででも中田を使いたいと発言したそうですからね。
中田自身がトップ下にこだわったのもあるけど、いかに評価が高かったって事かと。

間違いなくその後の日本人選手の移籍への門を広げたし、個人的には欧州で最も成功した
日本人選手だと思ってます。

2021/06/18(金) 
ユベントス戦は今でも覚えてる。
劣勢のなか、あのトッティを下げて中田が投入され大仕事をやってのけた。ゴールのあと「よっしゃ!」という口の動き。震えました。
その後、引退をしてからのインタビューで、「ローマに移籍して、全員が自分よりも巧くて焦った」的な話を聞き驚いた。あの(良い意味で)ふてぶてしかった中田がそんなことを思いながらチームにいたなんて。
それでも、テクニックだけでなく黒人選手にも当たり負けないフィジカルがあったから生き残れたんだろうなと感じる。
香川も久保も小野も南野も巧い。けど、中田を超えるフィジカルは誰ももちあわせてない。
すんません、偉そうに。

2021/06/18(金) 
準レギュラーの立場だったけど、世界各国の代表レギュラーがゴロゴロいる中で試合に出てゴールをきめたんだから凄すぎるよね。当時はリーガやプレミアと同等以上のリーグだったし。
そこでサッカー後進国の日本人が活躍だもんね。今ならタイ人やマレーシア人とかがプレミアで活躍したような感じかな?中田の功績は本当に大きいよ。

2021/06/18(金) 
トッティから変わってゴールを奪ったあの瞬間がまだ鮮明に残ってます。うまい選手はたくさんいるけど、強いと思った選手は中田でした。

2021/06/18(金)
あの時、コンフェデの決勝戦に残らずイタリアに帰って、大正解だったよね。

2021/06/18(金) 
途中出場からのあの豪快なミドルは今でも忘れられない、ローマでの活躍はもちろんだけどやっぱりペルージャでの活躍のほうが心の底から嬉しかった、とくにオーバーヘッドでのゴールはまじで鳥肌立った

2021/06/18(金)
ユベントス戦でゴールを決めたのはこのシーズン出場機会が限定的だった中田英寿とモンテッラなんだよね。
それくらいの選手層がないと当時のセリエAを制することが出来なかった象徴みたいな試合だな。
ロベルト・バッジョとピルロがブレシアに在籍したのもこのシーズンだったはず。

2021/06/18(金)
サムエル、カフー、中田、トッティ、バティストゥータなどあの年のローマは選手の性格的なバランスが良い感じだった。

2021/06/18(金)
反則タックル喰らっても倒れず突進していくシーンをよく見た記憶があります。とにかく頼もしい印象が強い。ネイマールに見せてやりたい。

2021/06/18(金)
フィジカルが強かったし、シュート力や精度もあり、守備も出来る。スルーパス能力も高い。
危険な場面ではゴール前まで戻って守備したり、ここで止めなきゃって場面では確実にファールしてました。
非常に危機察知能力に優れてましたし、これだけトータルで能力の高い選手は、その後日本に出て来てないと感じます。
…何らかの形で、日本サッカーに関わって行って欲しいと願う存在です!監督とか興味無いのかな?

2021/06/18(金)
父親がボクシング好きなのでたまたま入っていたWOWOW。フランスW杯後にペルージャ入りしたヒデ目的に何気なく観たセリエ開幕戦で受けた衝撃と興奮は忘れられない。それからセリエとCLを観るようになり、地上波の日本代表とは深さの違うサッカー放送にのめり込みました。ローマに移籍してからはトッティのリザーブ、ベンチ外もあったけど、この試合は日本人選手史上最も重要な瞬間だったと思います。











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