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圧倒的な攻撃力だった。UEFAチャンピオンズリーグでバイエルン・ミュンヘンは、グループリーグから11試合、計43ゴールを奪って完全優勝を飾った。初優勝を狙ったパリ・サンジェルマンはネイマールとキリアン・ムバッペがカウンターから好機をつくったが、GKマヌエル・ノイアーの壁に阻まれつづけた。ドイツ南部ミュンヘンの一地方クラブは、いかにしてサッカーネーションでトップに上り詰め、その覇権を掌握し続けているのだろうか。■戦略を間違えたPSG
ポルトガルの首都リスボンで行われた2019/20年シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝で、バイエルン・ミュンヘンがパリ・サンジェルマン(PSG)を1対0で破って6度目の優勝を飾った。グループステージから数えて「11戦全勝」というのは信じられないような成績だ。もっとも、決勝戦ではさしもの攻撃力を誇るバイエルンも1ゴールにとどまった。両GKの再三の好守もあったが、PSGがバイエルンの攻撃パターンを分析し、対策を立てて戦ったからであろう。だが、「ピッチの全面で激しくプレッシングを掛け合う」というサッカー・スタイルでは、PSGがバイエルンを上回るのは難しかったのではないか。それは、まるで“相手の土俵に立って戦う”ような行為に思えた。なにしろ、今さら言うまでもないことではあるが、走ることこそがバイエルンの、いやドイツのサッカーの最大の特徴なのだから。ピッチ全面に顔を出す“超人”トーマス・ミュラーは別格としても、最前線のロベルト・レヴァンドフスキも含めてバイエルンの選手たちは攻守に走り切った。スペースを見つけて相手より一歩早くフリーランニングを仕掛け、そこに早いタイミングでパスを送り込む……。これこそが、いつの時代でもドイツのサッカーなのだ。ドイツの選手も昔と比べればボール・テクニックが格段にうまくなったし、現在のバイエルンは多国籍軍団だ。それでも、やはりバイエルンのサッカーを見ていると「時は移れど、これこそドイツ人のサッカー」と思わずにはいられない。せっかく前線に個のタレントを揃えたのだから、PSGは違うやり方で勝負すべきだったのではないかという気がする。■1974年夏の偉大な出来事
さて、FCバイエルン・ミュンヘンにとっては、チャンピオンズカップ時代を含めてこれが6度目のビッグイヤー獲得となる。そのうち3度は1970年代前半の3連覇によるものだ。フランツ・ベッケンバウアーやゲルト・ミュラー、ゼップ・マイヤーがいた黄金時代である(いずれも、バイエルン州内で育った選手たちだ)。最初の優勝は1973/74年シーズン。ベルギー・ブリュッセルのヘイゼル・スタジアムで行われたアトレティコ・マドリード(スペイン)との決勝戦は1対1の引き分けに終わり、再試合で4対0の勝利を収めたバイエルンが初優勝を決めた。そして、バイエルンはこのシーズン以降3連覇を果たすことになる。そして、その直前、つまり1970/71シーズンからの1972/73年までの3シーズンは、リヌス・ミケルス監督とヨハン・クライフが率いるアヤックス(オランダ)がやはり3連覇を飾っている。1974年の決勝戦が行われたのは同年5月。つまり西ドイツ・ワールドカップの直前ということになる。そのワールドカップ決勝は、まさにバイエルンの本拠地であるミュンヘンのオリンピアシュタディオンで行われ、ベッケンバウアーをはじめバイエルン勢を主体とした西ドイツ代表が“ホームスタジアム”でクライフのオランダを破って優勝を飾った。一方、オランダ代表は1969/70シーズンにチャンピオンズカップを制覇したフェイエノールトとその後3連覇したアヤックスの連合軍だった。■バイエルンは絶対的な地位にいる
つまり、1974年の夏にヨーロッパ・サッカーの覇権はアヤックス=オランダからバイエルン=西ドイツに移行したのである。1970年代の前半の黄金期以降、それから半世紀にわたってバイエルン・ミュンヘンは「ドイツを代表するクラブ」としてヨーロッパの舞台で戦い続けてきたということになる。それまでのバイエルンは、ミュンヘンの一地方クラブに過ぎなかった。実際、1963年に西ドイツで初めての全国リーグとしてブンデスリーガが発足した際にミュンヘンを代表して新リーガに参加したのはライバルであるTSV1860ミュンヘンだった。バイエルンには、すでに全国リーグに参入するだけの実力はあったのだが、ブンデスリーガ加入クラブが過去20シーズンの成績によって決定されたことでその座を逃すことになってしまったのだ。しかし、バイエルンは1965年にブンデスリーガに参戦すると初年度に3位に入り、同シーズンにはカップ戦(DFBポカール)で優勝。そして、翌年にはヨーロッパ・カップウィナーズカップを獲得。さらに、1969年にはブンデスリーガで初優勝し、カップ戦も獲得してダブル・チャンピオンとなった。以来、約50年に渡って、バイエルンはドイツ(西ドイツ)最高のクラブとしての地位を明け渡すことがなかった。ブンデスリーガでは、今シーズンまで8連覇。国内では絶対の地位にあるのだ。
■どこの国にもあった栄枯盛衰の理
一つのクラブが、これだけ長きにわたって“国を代表する唯一のクラブ”としての地位を保ち続けるのは珍しいことだ。もちろん、レアル・マドリードやFCバルセロナは、それ以上の長きにわたってスペインを代表する強豪だった。しかし、彼らは“唯一の”存在ではない。常に2つのクラブが併存・競争していた。今シーズンのチャンピオンズリーグで2つのクラブをベスト4に送り込んだフランスでは“国を代表するクラブ”は時代に伴って次々と変わってきた。今シーズンのファイナリスト、PSGの創設はバイエルンがダブル・チャンピオンを達成した翌1970年のことでしかない。1970年代にはサンテチエンヌがフランスを代表するクラブとしてヨーロッパの舞台で戦っていたし、その後、マルセイユやモナコやリヨンなどがフランスの代表としてチャンピオンズリーグで活躍してきた。1970年代のイングランドといえば、まだフットボール・リーグ(FL)の時代だが、ビル・シャンクリー監督が作り上げたリヴァプールの時代だった。その後プレミアリーグが発足。ロシアの資本が入ったチェルシーが台頭したり、アレックス・ファーガソンのマンチェスター・ユナイテッドが君臨した時代があり、最近では長く低迷していたマンチェスター・シティが中東の資本を受け入れて一時代を築き、そしてリヴァプールが再びイングランドを代表するクラブとしての地位を取り戻した。かつて、東ヨーロッパの社会主義国には秘密警察や軍の息のかかったクラブがあり、その政治的な権力を行使してレフェリーに圧力をかけたり、ライバルチームのエースを引き抜いたりして圧倒的な強さを誇る時代もあった。ウクライナのディナモ・キエフや白ロシア(ベラルーシ)のディナモ・ミンスク(「ディナモ」という名称を持つのは秘密警察のチームだ)は事実上のナショナルチームとして、全ソ連リーグでロシアのビッグクラブに対抗していた。だが、東欧で社会主義政権が崩壊すると、こうしたクラブはその独占的な地位を失ってしまった。そうした各国の例を考えると、ドイツのような民主主義体制の大国において、たった一つのクラブが半世紀にわたって“国を代表するクラブ”の地位を保ち続けてきたというのは驚くべきことと言わざるを得ない。国家や独裁者の支援があるわけでもなく、アラブの王族の支援を受けて、カネにあかせた補強をするわけでもなく、健全経営を続けながら、その経営努力によってその地位を保ち続けたのがFCバイエルン・ミュンヘンなのである。後藤健生https://news.yahoo.co.jp/articles/f95c43bed6258f75e836d567f85fc44f38c0a3d9?page=3
2020/08/25(火)
ウリヘーネスの功績は大きいです。ヘーネスがバイエルンのGMになった時、バイエルンは財政面で厳しい状況だった。そこで今でこそ当たり前のユニフォームの企業広告、スポンサービジネス、テレビ放映権の販売等…そのビジネスモデルを作りだしたのはヘーネスであり、バイエルンです。
後はサッカー界に多くのグッズが出来たのもヘーネスの功績です。当時はユニフォーム、マフラー、帽子など衣料品がメインでしたが、彼がアメリカでアメフトや野球の多岐に渡る物販を見てサッカー界にも持ち込みました。
2020/08/25(火)
まだプロリーグもなかった頃の日本からこの時代にドイツに渡って戦った奥寺はとんでもない偉業だったんだと思う
2020/08/25(火)
つまりバイエルンのドイツ人はビッグイアーとW杯を同じ年(1974年)に獲得したわけだ。
2020/08/25(火)
バイエルンの経営戦略が他とは類を見ない程上手くいってるって事なんだろう。
2020/08/25(火)
パリが取るべきだった別の戦術、って何を想定しているんだろう?
2020/08/25(火)
周知の事実をつらつらとまぁ
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>>周知の事実をつらつらとまぁ
改めて紹介してるだけだろうに、そんなに不満なのか
優勝クラブがなんらかの注目を浴びて過去から掘り起こされるのなんて毎年のことだろうに