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 視座、という言葉があります。

 ビジネス関連の書籍で頻繁に見かけるような言葉を冒頭から使い始めた僕を見て「賢いフリをするな」という幼馴染みの顔が浮かびますが、少しだけお付き合いください。

 辞書で『視座』という言葉を引くと「物事を見る姿勢や立場」と書かれています。これは『座』という漢字が示すように「世界をどの座標(高さ)から切り取るか」ということを指していると僕は捉えています。

 ひと昔前までこの言葉は(特にサッカーの世界においては)「あいつは意識が高い、意識が低い」という、より大きく抽象的な表現に包括されていたと思いますが、そこから『視座』という言葉を抽出することによって、その言及対象は「行為」から、その「視(み)ている先」へとすることができます。

 本質的な差を生み出すのは、意識の高いアクション(習慣)そのものではなく、その行為をどこに辿り着くためにしているのか、という部分です。


「意識が高い」と「視座が高い」は異なる。
 
 つまり、「意識が高い」と「視座が高い」は異なる概念で、サッカーの世界においても、やはり「何を視るか」という座標の高低は、長期的な選手の人生に大きな影響を与えます。行為としての「意識の高さ」が仮に同じような水準だとしても、視座が違えば結果は異なってくるのです。

「モテたい」と思って練習に臨むのと「プロ選手になる」と決意して練習に臨むことには差がありますし、「1回戦を突破すること」を目的にする集団と「大会で優勝すること」を目的にする集団にも差が出てきます。同じように「真剣に一生懸命」取り組んでいたとしても、です。ちなみに、ここでいう「差」は違いであって優劣ではありません。優勝を目指す集団のほうが、1回戦突破を目指す集団よりも「偉い」とか志として「優れている」ということでは全くありません。

 では、「サッカー選手」にとっての視座とは、どういう成り立ちをしているのでしょうか。サッカー選手が少し先の未来を「視る」とき、それはどういう構造をしているのでしょうか。


指導者が関われるのは個人と組織まで。
 
 おそらくサッカーにおける視座は、「個人」「組織」「世代」の3種類に分けることができます。選手1人ひとりが持つ「個人」の視座、その集合体である「組織(クラブ)」としての視座、そして大きな横軸で共有される「世代」の視座があり、どれも可視化することはできませんが、プロアマ問わず、選手のキャリアにおいて大きな役割を担っています。

 ここで重要なのは、僕のような指導者が選手に働きかけることができるのは、「個人」と「組織」までであり、「世代」の視座は操作できないということです。

「ある年代」における思考傾向というのは、一指導者がタッチできる領域を大きく超えています。もちろん「各選手がなにをどう視ているか」というのはチームにとって不可欠な要素ですし、「所属する組織がどこを視ているか」というのも選手にとって極めて重要なので、指導者の役割なんて取るに足らない、という意味では全くありません。

 しかし一方で、最も潜在的に、そして継続的に選手の意識にアプローチしてくれるのは「世代」の視座ではないかと思っています。

 自分が属する世代にとっての「当たり前」は、無意識のうちに思考・行動選択に強烈な影響を与えます。良くも悪くも「世界を切り取る窓枠のかたち」は世代によって傾向が存在していて、よほど思考的に独立した人材でない限りは、その「世代」の傾向の範疇で物事を視るようになります。そして、属するクラブが変わることはあっても、属する世代が変わることはないのです。


「世代」の視座を形成するのは?
 
 ではサッカーの世界において、一指導者が大きく関与できるのが「個人」と「組織」だと仮定すると、この「世代」の視座を形作っていけるのは誰なのでしょうか。

 ひとつは、各国のサッカー協会です。

 日本においては、大会運営やその育成方針などを、全国的にデザインしていく力を「実際に」持っているのは、日本サッカー協会です。知識、技術、場所、経験を、国のサッカー協会がどのような経路で循環させていくかということが、若年代からシニアサッカーまで、あらゆる世代にとっての「サッカーの見方」を形作っていきます。地域やクラブという局所ではなく、世代という大きな横軸で捉えた時に、そこに「意図的」に触れることが出来るのは協会のような統括組織以外にありません。
 

もうひとつは時代の先頭を走る選手。
 
 しかし、この「世代」の視座に干渉できる存在が、もうひとつあります。

 それが、時代の先頭を走る選手です。三浦知良が扉を開いたように、中田英寿、中村俊輔、小野伸二が世界を見せてくれたように、世代に共有されるマインドセットは「前例」を持って飛躍的に高まっていきます。そして幸運なことに、いまの日本には「世界のトップ」の一員として、若い世代を強烈に刺激してくれる存在がいます。

 久保建英選手です。

 久保選手の存在は、前述の3つの視座のうち、「世代」に強烈に働きかけています。それは指導者から選手に伝える「コーチング」とは全く別の種類のもので、誰かに「言われる」のではなく、組織で「求められる」のではなく、選手がより自発的に久保選手を「自分に投影」することによって生まれるものです。

 僕は指導者になって、選手の「内側から出てくる」意欲の強弱が、外側の、つまりコーチングとしての指導の浸透圧を決定的に変えていくことを痛感しています。


「必要なこと」示してくれる久保建英。
 
 たとえば僕が久保選手と同世代に当たるU-20代表の選手たちに「語学が大事だからやっておけよ」と1000回言うよりも、彼がスペイン語でチームメイトと戯れている動画を1回見るほうが、選手にとっては効果があるでしょう。身体の使い方に目を向けることの重要性も、利き足以外の重要性も、シンプルにプレーするタイミングも、指導者が口酸っぱくいう前に、久保選手が「必要なこと」として示してくれています。

 おそらく今の若い世代の選手たちは、僕たちがジダンやフィーゴを見ながら「霧を掴むような感覚で」学ぼうとしていたことを、19歳の日本人から学んでいて、今からサッカーを始める子供たちにとっては「レアルで日本人がプレーする」というのは「すでに起きたこと」なのです。

 2003年に国立競技場で行われたFC東京対レアル・マドリー(0-3)を観戦しましたが、中学生だった当時の僕にとっては「レアルで日本人がプレーする」というのは現実的ではなく、同世代にとってレアルに入団する、というのは「現実では起こりえないだろう」というバイアスがかかった「夢のまた夢」でした。

 もちろん、ピッチの上では国籍も年齢も一切関係ありませんが、それを「自分の未来に投影する」ためには、国籍や年齢は大きな関心事です。マジョルカで爆発的な活躍をしたのが18歳のブラジル人か、18歳の日本人かというのは、大きな違いなのです。
 

心の片隅に灯るであろう、嫉妬や焦燥。
 
 僕がビールを片手に、久保選手のプレーを「単純に」楽しんでいるとき、そこには分析もなければ、嫉妬も焦燥もありません。観戦中も「ふぅ!」とか「かぁ!」とかいう擬音しか発していないので、妻に「また久保くん見てるでしょ」と呆れられるくらいです。

 しかし、「これからの世代」は、全く異なる眼差しで彼を見ています。その中の一部は既に、彼が活躍することで、心の片隅に炎が灯るような、嫉妬や焦燥を抱えていることでしょう。僕が久保選手を見るときに熱くなる場所とは、まったく別の心の箇所を熱くしながら、彼を見つめる選手または少年たちが確かに存在するのです。

 もちろん、片手に持つのはビールではなく、プロテインでしょう。


音を立てて「限界」を壊す久保。
 
「前例」は擬似体験になりえます。

 一指導者には壊すことが難しい「日本人の限界」という心のリミッターを、今の久保選手の活躍がガシガシと壊しているような気がしてなりません。目には見えませんが、音くらいなら聞こえてきそうです。

 僕は小学生の時に三浦知良選手を見て「日本代表でいちばん上手な選手」になれば、イタリアでサッカーができるんだ! と思いながら、校庭を「カズ」になりきって走り回りました。それから25年が経って、数々の素晴らしい選手たちのおかげで、その順序自体が入れ替わり、「海外でプレーすること」はいまや代表に選ばれる必要条件になりました。絶対条件になる日も限りなく近いかもしれません。

 だから僕は「久保選手を当たり前に見て育っていく世代」に対して大きな期待を寄せてしまうのです。彼らには「世界」はどう見えているのでしょうか。それは僕ら世代が10代の時に見た「世界」とは限りなく違う視え方をしているはずです。

 そして僕自身も指導者として、「異なる世代」(上も下も)が切り取る世界の見方を盲信も否定もすることなく、有機的に関わっていけるようにしたいと思います。できれば小さな「前例」となれることを自分自身に期待しながら。

(「フットボールの「機上の空論」」中野遼太郎 = 文)
https://news.yahoo.co.jp/articles/7b899203e03d92d8726152ec671cbd9fd1bc1863?page=1 










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